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2024年4月29日|新学期ネタNGの松村沙友理ちゃん

松村沙友理は、ロケ地にあった中学校を指差しながら、「新学期ってあるじゃないですか。ワタシ、ああいうのが苦手で・・・」と言った。

ザキヤマは、それを受けて、「なんで苦手なの?」と尋ねた。当然の質問と言えよう。

松村沙友理は、「・・・・・・・・・」と、長い沈黙を作った後、「ワタシ、新学期NGなんですよ・・・」と、苦笑交じりに答えた。

ザキヤマは、間髪入れず「いや、ソッチが振ってきたんじゃん!(笑)」と答えた。テンポの良いノリツッコミに、一同は爆笑。

そのまま、番組は進行していった。


・・・さて。

おそらく、僕だけでなく、他の視聴者も気になった方が多いシーンだったのではないか。松村沙友理と新学期の関係性。「新学期に何かしらのトラウマを抱えているのでは?」と邪推してしまった方も居ると推測する。かくいう僕もその一人である。

ここでまず思い当たるのは、全て計算ずくで、松村沙友理は、「新学期ってあるじゃないですか」と話題を振ってからの、「・・・・・・・・・」という長い沈黙、トドメには「新学期NGで・・・」と、意味深な発言で終わらせたのではないか、という点である。

僕は、芸能生活の厳しさ等は、皆無レベルでわからない。そもそも芸能ニュースはニュースの中でもワーストレベルで見ていない。だから、どこまでが計算で、どこまでが天然で、の基準もよくわからないし、松村沙友理という人自体、僕はよく知らない。ゲスト紹介の時に、“不思議系アイドルで売っている子なんだなぁ”と思ったぐらいの印象しか残っていない。

なので、僕がいくら考えたところで、前述した発言が、計算なのか天然なのかは、わかりっこない。強いて挙げるならば、カット編集が出来ない生放送ではないことを考慮すれば、「本当に立ち入ってはならない領域だったら番組で流していないのではないか?」とも思う。

更に言えば、本当に、トラウマ体験のようなものがあるのであれば、中学校を見ただけで、過去の記憶がフラッシュバックされ、居ても立っても居られなくなり、到底、番組の収録に集中出来ない状態になるのではないか、とも思えてくるのだが、それは個人差による部分が大きいということと、あとは、“プロ根性”として、平静を装い、仕事をキッチリと果たすことに注力した、とも取れるので、「NGと言う割には平気そうじゃないか!どうせ匂わせ発言で注目を集めたいだけだろ!」とは言い切れないと、僕は考える。

こういう問題について考えを巡らせる時に、僕が心掛けているのは、“正しさ”よりも“優しさ”を重視する、ということである。言い方を変えれば、最終的な意思決定の源泉は、“論理”ではなく“感情”を優先する、ということになる。一応の根拠としては、“人間は論理の生き物ではなく感情の生き物”ということと“感情のエネルギーは論理のエネルギーよりも24倍強い”ということに依拠している。

それを元に考察すれば、自己ブランディング的な観点から繰り出した発言と捉えるよりも、中学校の校舎を見て、思わず口に出してしまって、「いけない、どうしよう、上手く話を返さないと・・・」と思うものの、当時のトラウマ体験が邪魔をしてきて、「・・・・・・・・・」という沈黙が生まれることに繋がったのかもしれない、そんな見方を、僕は支持したくなる。

ココで一つ、太宰治『かすかな声』のフレーズを思い出したので、紹介して、今日の話を締めさせていただく。

信じるより他は無いと思う。私は、馬鹿正直に信じる。ロマンチシズムに拠って、夢の力に拠って、難関を突破しようと気構えている時、よせ、よせ、帯がほどけているじゃないか等と人の悪い忠告は、言うもので無い。信頼して、ついて行くのが一等正しい。運命を共にするのだ。一家庭に於いても、また友と友との間に於いても、同じ事が言えると思う。

 信じる能力の無い国民は、敗北すると思う。だまって信じて、だまって生活をすすめて行くのが一等正しい。人の事をとやかく言うよりは、自分のていたらくに就いて考えてみるがよい。私は、この機会に、なお深く自分を調べてみたいと思っている。絶好の機会だ。

 信じて敗北する事に於いて、悔いは無い。むしろ永遠の勝利だ。それゆえ人に笑われても恥辱とは思わぬ。けれども、ああ、信じて成功したいものだ。この歓喜!

 だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。地獄に落ちるのだからね。

 不平を言うな。だまって信じて、ついて行け。オアシスありと、人の言う。ロマンを信じ給え。「共栄」を支持せよ。信ずべき道、他に無し。

太宰治『かすかな声』

▶ だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。地獄に落ちるのだからね。

僕は、日常生活を送る中で、このフレーズを、何度も何度も、繰り返し繰り返し、思い返している。そのたびに、真理を突いているなぁ、と感服させられるものだ。

そのたびに、僕は、目先の利得に駆られて、自分本位な嘘を吐いてしまった過去の悪行が、フラッシュバックしてくる。自分が蒔いた種。背負うべきカルマだ。この十字架は、息絶えるまで、背負い続けなければならない。それが宿命と言えよう。

「正直者が馬鹿を見る世の中なんてクソ食らえだ」と言う人が居る。僕に言わせれば、正直者が馬鹿を見るぐらいが丁度良いのではないか、とすら思えてくる。それが幸せに近付くための条件なのではないかしら、とすら思えてくる。

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