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【夢日記】祭りに半ば無理矢理駆り出された挙げ句、宴会にも半ば無理矢理参加させられた

僕は祭りの正式メンバー(その地域では連中(れんじゅう)と呼ばれている)では無いのだが、急遽(きょ)、人員が足りないとかなんとかで、駆り出されることとなった。

男性「若い兄ちゃんが居れば助かるよ!」

僕「はぁ・・・、まぁ・・・。」

大体、60歳前後なのかしら、と思われる男性に、そんなことを言われて、半ば無理矢理、神輿を担ぐ集団の中に、入れられた。

ちなみに僕は29歳。確かに、周りを見渡した限りでは、僕と同年齢の者は、居ないことも無いが、割合で言えば、少ない。40代~60代ぐらいと思われるメンバーが主となって、祭りを盛り上げているらしいことは伝わって来た。

とはいえ、年齢は僕の方が若いと言っても、「血気盛ん度合い」で言えば、明らかに、僕よりも、最初に声を掛けられた60歳前後の男性の方が、ハキハキと話していたし、キビキビと動いていた。

それで言えば、僕は、ボソボソと話していたし、ナヨナヨと動いていた。誰がどう見ても、年齢区分で言えば20代に属する僕よりも、たぶん60代に区分されると思われる男性の方が、頼りになりそうだと思った。僕自身がそう感じるのだから、他の人からすると、もっと感じることだろう。

「(若いってだけで駆り出されるのもなぁ・・・。)」

僕は、一応、神輿を担いでいるフリをしながらも、頭の中では、”いつもの如く”、別のことを考えていた。”この祭り、早く終わらないかなぁ”、とも思っていた。言わば、暇潰しがてら、”十八番の”、思索に耽っていたのであった。

「フリ」と書くと失礼に当たるだろうが、最初は、みんなと一緒に担いでいるつもりだったけれど、僕が、ヨイショ、と力を入れてもいなくても、神輿はちゃんと持ち上がっていたので、じゃあ別に俺が頑張る必要無いやん、ということに気付いて、結果的に、担いでいるフリ状態で落ち着いた、それだけは付け加えておきたい。はなから手を抜く気は無かったことは弁明しておきたい。

注釈

そんな、”一人遊び”、に興じていたら、祭りが終わりを迎えた。僕は、何も貢献していないにもかかわらず、それなりの達成感を味わいながら、「あ~、終わった終わった。これで解放される~」と思っていた。解散したら、さっさとこの場から逃れよう、と思っていた。

自分で言うのもなんだが、この人、ダメ人間だな、と思う。でも、夢の僕がそんなことを考えていたのだから、仕方あるまい。事実に基づいて筆記することもまた、僕の使命なのだから。僕は嘘が付けない人間なんだ。「世渡り上手の嘘上手」よりも「世渡り下手の嘘下手」でありたい。「正直者は損をするぞ」と言われても「要領良く得をする人生よりよっぽどマシだ」と突っぱねてやるんだ。

注釈

ところが、

男性「おい、そこのお前、こっち来たらどうだ」

僕は、誰にも見つからないよう、そ~っと集団から離れようとしていたのだが、”運悪く”、と書くと、やはり失礼に当たるかもしれないが、最初に声を掛けられた男性とは別の、ただ、身なりはほとんど同じの、血気盛んな60代と思しき男性に、声を掛けられたのだ。

「こっち来たら」とは「打ち上げ場で一緒に飲もうじゃないか」ということを意味している。祭りが終わったら飲み会が催されることは存じていた。だが、僕は、全くと言って良いほど、参加する気はなかった。そもそも、そういう集まりが得意ではないのに加えて、僕は、正式なメンバーでもないからだ。断る理由はいくらでも考えられるからまぁ逃げられるだろう、くらいに考えていたのだ。

僕「いや~、飛び入り参加なんでね」
僕「そもそもココに居るのもアレっていうかね」

「ココ」は「祭りを盛り上げた集団」のことを指していて「アレ」は「自分がそんな場所に居るのは本来有り得ないことだ」という意味で用いている。

僕は指示代名詞(こそあど言葉)を用いることが度々ある。その理由は明確だ。物心が付いた頃から、ハッキリと物を言うのが苦手な性分だから、お茶を濁す目的で「ココ」とか「アレ」などと言い換えて相手に伝えているわけだ。

良く言えば、オブラートに包むことで、”相手の心を傷付けたくない意思表示”、と言えるかもしれないが、悪く言えば、僕の気持ちを察して欲しい、言外に示したニュアンスを汲んで欲しい、といった、”自分本位の要求”、とも言えよう。

そんな僕の「ココ」と「アレ」をどう思ったのか、はたまた、どう思うことも無く通り過ぎていったのか、それは、目の前の男性にしか知る由もないのだが、ただ一つ言えることは、僕が言葉を発した直後、彼から発せられたのは、

「若いのが遠慮したらアカン!」

だった。

僕は「はぁ、では、まぁ・・・。」と、何とも言えない表情を浮かべて、何とも言えない相槌を返しながら、直接的ではなくとも、間接的には引きずられるような状態で、”渋々”、と言ってもまだ足りない、”(集団から離れて一人時間に浸りたかったという意味で)後ろ髪を引かれるように”、ズルズルと、暑苦しい宴会場、もとい、屈強な男性が集まって活気に溢れる宴会場へと、駆り出されることとなったのだ。

僕は、表面では懸命な愛想笑いを取り繕いながらも、内面では絶望に打ちひしがれた状態の中、突然、ボクシングでタオルが投げ込まれるかの如く、目を覚ました。

もしかしたら、夢を見ている現実世界の僕が「夢世界の僕はもう限界だ!」と判断したのかもしれない。であれば、極めて賢明な判断と言えよう。懸命だけに。

(最後につまらんダジャレ。)

「はぁ、では、まぁ・・・。」には「『遠慮』じゃなくて『拒絶』と言った方が、より僕の心情に即しているのだけれども、そんなこと、間違っても相手に伝えるわけにもいかないし」といった意味合いが付与されていると思われる。

僕は「良かれ」と思ってやってもらったことに対しては、滅法弱いタチだ。いわゆる「ありがた迷惑」とは、この世に数限りなく存在していると思うのだけれども、「善意の悪行」を、僕は裁く気にはなれない。それよりも「悪意の善行」の方を裁くべきだと心得ている。

それを踏まえると「遠慮したらアカン!」といった言葉からは「飛び入り参加とか気にせんでええ!今日の祭りを一緒に盛り上げたことには変わりはにんだからな!」といった「仲間意識」を感じられた。

もちろん、僕に代表されるように、そういう「強い繋がり」に苦手意識を覚える方もまた多い。だが、僕は、「そういうのハッキリ言ってありがた迷惑なんで!」とは言えないのである。どうしても、言えない。善意の気持ちが伝わって来れば来るほど、言えないのだ。そんな善人を悲しませるぐらいなら自分がちょっと我慢すれば済むことだ、と思ってしまう。

「そんな生き方・考え方をしていると相手から舐められるよ?」なんてことをハッキリと言われて、ハッとすることも、あった。でも、変えられない。変えたくないのかもしれない。どっちもある気がする。変わりたい自分と変えたくない自分。正直、僕自身、判然としていない。

ただ一つ言えるのは、自分の主義主張に基づいて行動した結果、善人を悲しませてしまったら、その一部始終は、いつまで経っても、記憶から抜け落ちることはない、ということだ。類似場面に遭遇すると、必ずと言って良いほど、悲しむ表情がフラッシュバックしてくる。そのたび、後悔の念に苛まれることとなるのだ。

つまるところ、どうすることも出来ないじゃないか、というのが、僕の本心本音である。そんな心境を咄嗟に言語化したのが、「はぁ、では、まぁ・・・。」だったのだろう。

注釈

【あとがき】

僕が生まれ育った地元では、10月14日と15日の二日間、祭りが行われた。昨年も催されてはいたが、コロナの影響で例年通りの盛り上がりとはいかず、粛々と執り行われたらしいのだが、今年は、そういった対策は一切無くなり、自粛した年も含め、4年振りに大盛り上がりしたらしい。

そんな話を小耳に挟んでいたからか、数日遅れで、地元の祭りの夢を見た。それも、来訪者としてではなく、主催者側として、である。これには僕も驚いた。なぜなら、人生を振り返ってみても、そういう、”盛り上がりの中心”、に据えられる機会は、ほとんど経験してこなかったからだ。

僕は、こういうイベント、文字通り「お祭り騒ぎ」するような類いは極めて苦手であって、「催す側」はおろか「催される側」でも思い切り楽しめなかったりもするし、今回のケースのような「催した様子を眺める側」でも、やはり、周りの空気に自然と合わせることは出来ず、無理して自分なりにはしゃいでみたり、あるいは、諦めてしまって「我関せず」状態に陥り、はたから見れば「お前何で来たんや?」と思われそうな出で立ちで、一人、仏頂面を決め込む他は無いのだ。

そう考えれば、今回の夢の内容も、まぁ察しが付くのかな、とも思う。夢の自分が祭りを思い切り楽しんでいて、現実の自分は全く楽しめていない、なんてことがあれば、それこそ変だろう。

見方を変えると、もしそんなことが起きていれば「深層心理の自分はホントは祭りを楽しみたいって思っているんじゃないか・・・?」といった思索にも繋がって来そうだが、楽しめなかったということは「やっぱり人が沢山集まる場所は自分にとって居心地が良い環境では無いんだな」と再認識することが出来た、ということも言えそうだ。

もちろん「自分にとって」であるから、ワイワイ盛り上がる場所が好きな人は、当然、行けば良いと思う。そういう人を小馬鹿にして後方から高みの見物をしているニュアンスは全く孕んでいないので、悪しからず。むしろ、盛り上げ上手な人を見て、しみじみと、自分に無いスキルをこの人は持っているんだなぁと、感心していたりもする。

そういう意味では「人間観察に徹することが出来る宴会場」なんていうのは、違うベクトルの楽しみ方ではあるけれど、割と居心地良さを覚えていたりもする。

この感覚を言語化するのは難しいのだが、多分、そういう宴会場って、前述した「お前何で来たんや?」的なことをストレートに言われたり、あるいは、そんなニュアンスを孕んだ強いツッコミを入れて来なくて、”各々の楽しみ方があって然るべきだ”、みたいな空気感をどことなく感じられるために、宴会メンバーの一員として溶け込みやすい、のではないかと思われる。

結論としては「たとえ黙っていてもそっとしておいて欲しい」になるのかな、と思ったのだけど、それはそれぜ善意を無下にしているようで忍びないな、とも思ってきた。おそらく、言葉遣いは人それぞれでも、根底には、”もっと楽しませてやろう”、という気持ちから、楽しそうではないオーラを醸し出している僕に、声を掛けて来るのだろうから。

まぁ、悪酔いから、”困らせてやろう”、的な企みから、僕にちょっかいを掛けて来ているという見方も、出来ないことはないが、僕の経験則から言っても、そういう人は少数派だ。「善意・悪意」の違いは、何となくは、分かる。その場で確認するわけではないので、あくまでも、僕のさじ加減の話にはなってくるのだが。

だが、言ってしまえば、悪意の声掛けと思われるものは、”俺に構うな”、的な拒絶反応を示して、それこそ追っ払ってしまえば済むことだ。お互い、後腐れなく終わる。それよりも、善意の声掛け、これが僕を悩ませるのだ。気持ちはありがたい。でもアナタの意に沿うのは厳しい。まさに、”前門の虎、後門の狼”。どう足掻いてもしこりが残る。

出来れば相手にはしこりを残させたくはない。どうせなら自分が背負いたい。でも、その瞬間の対応では、防衛本能が働いて、ついつい、自分を守る選択肢を取ってしまいやすいのも、また事実だ。そういう弱さが僕にあることも自覚している。それもまた人間と言えるのかもしれない。

ただ、その瞬間は良くても、その後、解散して一人になった時とかに、あの時はせっかく声を掛けてくれなかったのに申し訳ないことをしてしまったなぁ、などと落ち込んだりもする、これもまた事実だ。それに、僕は、この類いの「一人反省会」を、大学の時分から現在のアラサーに至るまで、飲み会終わりに、幾度となく経験してきた。

果たして、いつかは「今日の飲み会の僕の立ち居振る舞いは100点だったなー!」と思える日はやってくるのだろうか。今の僕の率直な気持ちで言えば、いつまで経っても「ああすれば良かった、こうすれば良かった」と思い煩ってばかりな気が、する。

でも、それで良いのかもしれない。「今日は100点だった!」というのは、一見、素晴らしいことのようにも思えるが、僕のような人間からすると「ホントに正すべき箇所は一つも無いぐらい完璧だったのか?」とか「傲岸不遜(ごうかんふそん/おごり高ぶった状態)状態に陥って自身の欠点が見えなくなっているのではないか?」などといった自問自答が繰り広げられたりもするのだから・・・。

そんなわけで、夢の内容が本題なのか、あとがきが本題なのか、僕自身、何がなんやら良く分からない、そんな夢日記でしたとさ。

(それも「いつものこと」だろう?)

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