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2024年5月15日(水)|「場末のスナックのママ」の一考察 feat.工藤静香

LINEアプリを開いても「ニュース」の項目をタップしないことも多いのだが、たまたま、ポチッと押してみたら、この記事が目に入って来たので、たまたま、目を通してしまった。こういうことがちょくちょくある。大体「時間損した〜」と後悔する。吉本興業の闇営業問題が良い例。

記事を読んでみると、情報元のInstagramに飛ばなくても良いぐらい、賛否両論のコメントが沢山紹介されていて、「よくもまあこんなに…。」と驚かされたのだが、その中で僕が気になったのが、

さらに、《このロングヘアとキラキラのドレスが、場末のスナックのママみたいで似合ってるんだよ》など、皮肉とも称賛ともつかないコメントも寄せられている。

工藤静香、ロングドレス披露に賛否|引用文

この一文である。

▶場末のスナックのママみたいで似合ってる

この表現に対して、「週刊女性PRIME」のライターの方は、「皮肉とも称賛ともつかないコメント」とまとめている。

「皮肉とも称賛ともつかない、か…。」

僕は、こういう、“まぁどっちとも取れる”みたいなシチュエーションに対して、ひどく頭を悩ませてきた。その大半が、「良かれと思って言ったけど相手は悪く受け取ってしまった…。」というパターンだ。


ここまで書いて、過去の記事、といっても、「ブツクサ日記」の頃ではなく「ラジオ日記」の頃の記事になってしまうのだが、似たような趣旨でブツクサと語っていたことを思い出したため、せっかくなので、記事リンクを貼っておこう。

昨年までは制球難で球数が増えるケースが多く、昨年4月11日のヤクルト戦では4回で82球、8月23日の広島戦では5回2/3で128球を費やしていた。「制球難も浜口の持ち味の1つ」とまで言われるほどだったが、この日はコントロールが安定し、球数も4回44球に抑えた。

「制球難も持ち味」揶揄された元ドラ1|引用文

▶「制球難も持ち味」揶揄された元ドラ1

上記の記事のタイトルを見ると、「制球難も持ち味」という発言(ソースが明記されていないがおそらくSNS等でそんな書き込みがあったということか?)は、“皮肉とも称賛ともつかない”ではなく“揶揄”と、ハッキリ書かれていることが分かる。

それに対して、物心が付いた頃から野球ファンであると自認している僕が、個人的見解を述べさせてもらった次第である。詳しく知りたい物好きな方は、記事リンクから飛んでいただけると幸いである。仕様上、5分にまとめているので、サクッと聞けることは、聞けるはず。(だいぶ早口でまとめた記憶があるけど…。)


さて、いつものことだが、話が二転三転してしまっているので、今回のポイントを、今一度、確認しておこう。

▶さらに、《このロングヘアとキラキラのドレスが、場末のスナックのママみたいで似合ってるんだよ》など、皮肉とも称賛ともつかないコメントも寄せられている。

僕の見立てとしては、「場末のスナックのママ」という表現が「皮肉」なのか「称賛」なのか、話し手によっても、受け取り手によっても変わってくると思われるので、文面だけでは判断しがたい、という意味で、こういう書き方になったんだと思われる。プラスα、このコメントだけでなく、他にも賛否両論起きていた、という状況も加味されているのかな。

それを踏まえた上で考えてみたい。

「場末のスナックのママは悪口なのか?」

と。


“場末のスナックのママ”

残念ながら、僕は、場末はおろか、スナックにすら、一度も行った経験が無い。なんなら、バーにすら行ったことが、数えるぐらいしか無い。それも“半強制的”の状況に限る。

定期的に誘われたりするのだが、いずれも「ガラじゃない気がして…。」とか「バーテンダーさんへの苦手意識が…。」とか「客層が気になりそうで…。」とか「店内と店内BGMがオシャレであればあるほど居た堪れなくなりそう…。」などと、適当な理由を付けては断って、その代わりに、行き慣れており心身が落ち着く、大衆居酒屋へと足を運んで来た。

そんな僕が「場末のスナックのママ」について語ることは、ちゃんちゃらおかしい。

前述した「『制球難も持ち味』は揶揄なのか?」については、僕なりに、年数を重ねて野球に触れてきた上で、「揶揄って言い切れるものなのか?」と問題提起をした。これなら良い。私見を述べる上では(少なくとも僕としては)前提条件はクリアしていると言える。

(場末のスナックのママを語る資格があるのか?)

心の声が鳴り響いている。分かっている。そんなことは言われなくても分かっているんだ。けれども、無性に気になるのだ。それだけは確かなのだ。デカルト風に言えば「我気になる、故に我有り」なのである。分からなくとも、気になっていることには変わりない。なので今回は、無い知恵を振り絞って、僕なりに納得出来る結論を出してみたい。

まず、辞書を引こう。話はそれからだ。

繁華街の中心部から離れた場所。また、都心からはずれた所。「—の飲み屋」

場末|デジタル大辞泉(小学館)

1 軽い食事。軽食。

2 「スナック菓子」の略。

3 「スナックバー」の略。

スナック|デジタル大辞泉(小学館)

1 母親。おかあさん。また、子供などが母親を呼ぶ語。⇔パパ。

2 第三者がその人の母親を親しみを込めて呼ぶ語。普通、その相手が幼い子供の場合に用い、大人には用いない。「—はおいでですか」

3 子供のいる家庭で、家族が子供の母親を呼ぶ語。子供の視点に立って、父親が妻を、祖父母が娘を指して言う語。「—に聞いてからにしましょう」

4 子供をもつ女性。母親。「公園で—同士の立ち話」

5 母親が自分を指して言う語。「—の小さかったころのことよ」

6 酒場などの女主人。マダム。

ママ|デジタル大辞泉(小学館)

以上、「場末」と「スナック」と「ママ」の3単語に分けて辞書を引いたみた。

「ママ」は、今回の文脈から察するに「6 酒場などの女主人。マダム。」を指していると思われる。

「スナック」は、今回の文脈から察するに「『スナックバー』の略」を指していると思われる。なので、「スナックバー」で再び辞書を引いてみる。

スタンド形式の簡単な飲食店。また、軽い食事のできる酒場。

スナックバー|デジタル大辞泉(小学館)

これで、辞書的な意味は分かった。


「ふ〜む・・・。」(沈思黙考モード)

なるほど、大体把握出来た。

「場末」は、確かに、人によって意見が分かれそうなところだが、「スナック」と「ママ」には「皮肉」のニュアンスは感じ取れなかった。おそらく「場末」をどう受け取るかによって、「皮肉」か「称賛」かが決まってくるのであろう。

まぁ、「スナック」と「ママ」に関しても、年代によっては、そういうケース、「皮肉」と受け取られかねない場面もあるのかもしれないが、今回、ターゲットになっている人物は、工藤静香である。

工藤 静香(1970年4月14日|54歳)は、日本の歌手、アーティスト、タレント。東京都出身。愛絵理(あえり)名義で楽曲の作詞も行う。

工藤静香|Wikipedia|引用文

そう。彼女は54歳なのだ。「スナックのママ」という表現は、むしろ、“ドストライクゾーン”と言っても過言ではないだろう。

ここまで書いてきて、ふと思い付いた。杉本彩。スナックのママ。これ以上に親和性の高いワードも無いんじゃないか、というレベルでしっくり来る。そんな気はしてこないか?

「・・・ハッ!」

ここで僕は気が付いた。工藤静香。杉本彩。スナックのママ。これはいけない。完全によこしまな目で見ている。スナックのママを。

僕はスナックに行った経験は無いけれども、何となく、想像は出来る。お酒が入った状態で、スナックのママに向かって、「ママぁ〜。慰めてぇ〜。」と、幼児のような振る舞いで、彼女達に泣き付いている光景が。

「これは確かに皮肉とも言えるか…。」

確かにそうだ。工藤静香といえば、知らない人は居ない、と言っても良いレベルで、超超超・有名人だ。「木村拓哉♡工藤静香」の芸能人夫妻は、それこそ、日本を代表するビッグカップルと言えるだろう。

そんな彼女が「スナックのママ」として、酒に酔って、幼児と化したオジサン達を相手に、「ヨシヨシ。よく頑張った。えらいえらい。」とか言いながら、あやしてる様子を想像すると、受け取り手によっては、“スナック堕ち”と言われる向きもあるのかもしれない。


“○○堕ち”

僕はこの言葉が好きじゃない。

売買ならずは買人は事を欠、賣人は賣れまじ。左様なりゆかば商人は渡世なくなり農工と成らん。商人皆農工とならば財寶を通す者なくして、萬民の難儀とならん。士農工商は天下の治る相となる。四民かけては助け無かるべし。

石田梅岩|都鄙問答(とひもんどう)|引用文

唐突に、すまない。この手の話になると、僕が好きな歴史上の偉人の一人、石田梅岩のことを思い出してしまうので、つい・・・。

(どないしたらええんやろう・・・)
(収拾を付けられんくなってもうた・・・)

と頭を悩ませて、どう書き進めようか思案していたら、渡りに船、『都鄙問答』の現代語訳を載せた記事をUPされているnoterさんを発見した。グッジョブ!センキュー!

売買ができなければ、買う人には不便で売る人は売りようがありません。そうなれば、商人が生きていくことはできず、農民か職人となるでしょう。商人がみな農工となれば、物資を流通させるものがなくなり、すべての人が苦労するでしょう。士・農・工・商は世の中が治まるために役に立ちます。その一つでも欠けるとどうしようもない。

石田梅岩|都鄙問答(現代語訳)|引用文

とまぁ、こういうわけである。(人任せ)

よく「職業に貴賤は無いんだよ!」と言われたりするけど、初出は、この書物が有力視されている(諸説有り)。そういう説明の仕方をすると、大体「あ〜!」って言ってもらえる。嬉しい。逆に言うと、石田梅岩って名前だけだと「誰それ?」ってなる。悲しい。

「職業に貴賤なし」以外にも、彼の思想は僕のストライクゾーンにビシビシ決まってくるし、現代社会にも通用する考え方が随所にちりばめられているので、関連書籍を読むとワクワクしてくる。詳しくはココでは触れない。ググれば大まかな内容は出てくると思うよ、たぶん。


(全然話がまとまんないんですけど・・・)

僕自身、ビックリしている。まさかここまで難航するとは思っていなかった。

白状すると、「書き手の人は良かれと思って書いたんじゃないか?」という方向性に持っていくつもりだった。

正直に言う。着地点は、はなから決めていたのだ。ただ、どういうプロセスを踏むべきか、について考えを巡らせていた。読み手が「あぁなるほどね」と腑に落ちるような持って行き方が出来れば良いなぁと思いながら、この記事を書き始めたのだ。

ぶっちゃけ、もっと精査するべき点がある気もするのだが、いかんせん、執筆時間が、既にタイムオーバーだ。押している。これは良くない。なんなら文字数もオーバーしている。「引用文」がそれなりにあるのを差し引いたとしても、今現在で「4420文字」である。目安にしている「2000文字」の倍以上だ。大変よろしくない。

というわけで、「スナック」と「ママ」に関する討議は打ち切りにして、「場末」について、今一度、考えを巡らせてみたい。


繁華街の中心部から離れた場所。また、都心からはずれた所。「—の飲み屋」

場末|デジタル大辞泉(小学館)

なんか懐かしさすら覚える。

“場末”

これは確かに意見が分かれそうな用語だ。

「繁華街の中心部に位置するスナック」
「繁華街の中心部から離れた場末のスナック」

イメージ的には、どうだろう、前者よりも後者の方が、なんとなく、さびれた感じがあったり、建物に高級感が無かったり、活気も無かったりと、ポジティブよりもネガティブな要素の方が、色々と思い付きやすいのかもしれない。

けれども、だからといって、「皮肉」と決め付けるのは早合点だと僕は考える。なぜなら、そういうロケーションを、むしろ好意的に捉えて、進んで、場末のスナックバーに足を運ぶ人も、一定数居られると思うからだ。

前に述べたように、僕は、スナックに行ったことはない。だが、もしもスナックに行ったとしたら、繁華街の中心部で賑わっているスナックでワイワイ酒を飲むよりも、場末のスナックでしっぽりと酒を飲んだ方が、僕の性に合う気がする。

もっと言うと、「気がする」と書いたが、気分的には、「僕の性に合う」と言い切りたいぐらいだ。試したことは無いから確証は無いのだが、おそらく、間違いない。はず。これまでの経験則から行くと。

もしも、僕のような人種の方が、

▶《このロングヘアとキラキラのドレスが、場末のスナックのママみたいで似合ってるんだよ》

というコメントを残していたとしたら、この言葉の意味するところは、言うまでもなく「皮肉」ではなく「称賛」だ。

おそらく、コメントを書く前に、ロングヘアとキラキラのドレスを見て、スタンディングオベーションをしたことだろう。そして、ウットリとした表情で、

「こういうのでいいんだよ・・・」

そう呟いたはずだ。

ほー
いいじゃないか
こういうのでいいんだよ
こういうので

孤独のグルメ|こういうのでいいんだよ|引用文

ちゃんちゃん。(唐突打ち切り|タイムアップ)


【P.S.】

▶ロングヘアとキラキラのドレスを見て、スタンディングオベーションをしたことだろう。

こう書いておきながら、ロングヘアとキラキラのドレスを身にまとった工藤静香のインスタ画像が見られるリンクを貼っていないのはアカンやろ、と思ったので、最後に添えておきます。

「賛否両論起きる格好なのかなぁ…。」

僕ちんには何にもわからんちん。

ちんちん。

間違えました。

ちゃんちゃん。


【P.S.】

「ちゃんちゃん」を「ちんちん」と意図的に間違えてみるという、小学生未満の下ネタが飛び出すぐらい、時間に追われて、文章を書くのにも疲れていたらしい。せっかくなのでそのままにしておこう。僕は黒歴史すらも愛したいと思っている。

・・・そんな話がしたいわけじゃなくて。 

「職業に貴賤なし」以外にも、彼の思想は僕のストライクゾーンにビシビシ決まってくるし、現代社会にも通用する考え方が随所にちりばめられているので、関連書籍を読むとワクワクしてくる。詳しくはココでは触れない。ググれば大まかな内容は出てくると思うよ、たぶん。

本文|一部引用

「彼」とは「石田梅岩」のこと。

▶ググれば大まかな内容は出てくると思うよ。たぶん。

これで終わらせてしまうのは、さすがに、“石田梅岩好き”を自称している者にとって、あってはならないことではないかと思った。

そう言うなら、実際に自分でググってみて、有益だと感じた情報を引っ張ってくるのが、“石田梅岩好き”として、筋を通すことになるはずだと考えた。

そんな僕が選定したサイトがこれである。

このサイトに目を通してる時が、一番、心がワクワクした。「心学」と呼ばれるのだから、やはり、心がワクワクしなくてはならない。「あぁそうだ。だから僕は石田梅岩が好きなんだ」と改めて感じる記事だった。執筆者の方、センキュー。

いざ調べてみると、石田梅岩を取り上げた記事が、沢山出てきた。嬉しい。「石門心学」がビジネス的観点から再評価を受けていることも知った。嬉しい。

僕は歴史&倫理の観点で学んで感銘を受けたクチなので、ソッチ方面はよく知らなかった。サンキュー石田梅岩。フォーエバー石田梅岩。

じゃあなんで俺の周りの知名度こんな低いねん。

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