見出し画像

「感染に弱い人の前ではマスクをしましょう」と言う「思いやり」の欺瞞を考える~「人間らしい最期」を奪う感染対策とは何なのか?~

 病院や介護施設に勤務していれば人が死にゆく様を見つめることが多い。突然であったりゆっくりであったり、経過はそれぞれであるが、人がその生を閉じる瞬間に立ち会うことは少なくない。
 やがて来る自分の人生の終わりときと重ねることもあるだろう。
 そう遠くはない最期までの時間を、どのように過ごしたいだろうか。

真剣に考えてみて欲しい。

 ゆっくりと死に向かうのは、今の世の中では幸運なことかもしれない。
 歩くのが億劫になる。食事が少しずつ摂れなくなり、やがてベッドから起き上がることも困難になり、思うこともうまく伝えられなくなる。口の中が気持ち悪くても伝えられないが、口腔ケア一つしてもらうだけで快適な時間を過ごせる。
 トイレにも行けなくなる。排泄の感覚は残るのでオムツの中に排泄物があれば不快だしきれいにしてもらえれば快適である。体位変換一つとっても荒っぽくされれば痛みが走る。そんなときももはや伝えることは難しい。

 それでも、全身が枯れ枝のようになっていっても、自分に語り掛ける声は聞こえる。自分をのぞき込む人の顔は見える。その声が、医療スタッフの声だけだったらどうだろうか。その顔が、全てマスクで覆われていたら、どうだろうか。
 自分をのぞき込むのはスタッフの眼だけ。愛した人たちの声は聞こえない。

 やがて光も感じられなくなる。
 それでも、声だけは聞こえている。なのに、愛する人の声はどんなに待っても聞こえない。

 そして、やがて、全てが止まる。

 こんな人生の終焉を迎えたいと思うか?

 高齢者を感染症から守る。その錦の御旗の元に、どれほど多くの人が、家族の声すら聞けずこの世を去っただろう。仮に聞けたとしても、本当に最期のときだけ。

 人間には、精神がある。精神としての存在の重みが、心臓が動き呼吸をする生命体としての人間に劣るはずがない。
 だが、この3年間はどうだ?感染させないことすなわち生命体として機能させることばかりを優先し、精神はどれほど軽く扱われてきたか。

 感染対策のために人間らしい時間を奪われて2年延命することと、人間らしく人との交流の中で何かの感染症から肺炎になり1年で命を終えることと、どちらを選びたいか?

 高齢者施設でマスク着用を義務付けることの意味を今一度考えて欲しい。 
「感染に弱い人の前ではマスクをしましょう」と言う一瞬思いやりに溢れたようなこのフレーズが、本当に人間を尊重したものかよく考えて欲しい。

 認知症患者が不安で徘徊しているときも、こちらがマスクを下げて笑顔を向けるだけでうれしそうに笑い、落ち着きを取り戻す。こんな当たり前のケアすら禁止する感染対策とは何なのか?

 若い人であれば普通に自然治癒した感染症に勝てなくなるのが、老いるということだ。その未来永劫不変の真理を排除した結果がマスクとアクリル板に囲まれた余生だ。

 人間らしさはどこにいった!?
 
 人間らしい死を迎えたいという尊厳は絶対に守られなければならないはずだ。

 高齢施設における入居者・職員の一律マスク着用などあってはならない。

~おわり~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?