外伝 戦争について

あとがきもどき

みなさんこんにちは。やまねこです。

今日は、少しだけまじめな話。
「何故戦争をテーマにした作品を書こうと思ったのか。」
について、ちまちまと語っていきます。

先日。部活動で戦争小説を書いている旨を、某友達に伝えたところ、
「え、そんな重い小説書いてんの?(冷笑)つまんなくね?」
と鼻で笑われ、挙句
「え、そんなことよりさあ」
と話題を強制転換させられました。

―ここまで端的に、かつ率直に否定されたのは初めてです。

いえ、別段そこまで気にしてないし、全然怒ってないのです。
よくもまあそんな傲慢な態度で今まで生きてこれたなすげえなお前
そういえば書き始めた理由を言っていなかったと気づかせてくれて
つまんなかったら書いてねぇよそうだよ趣味だよ何が悪いんだよ
寧ろ感謝しています。
二度と話しかけんな。
まあ、確かに彼の言うことも分かります。
「死」は「生」を受けた全ての生物に等しく与えられた未来ですが、
殆どの人間はそれについて深く考えることを嫌いますから。
そんなことばかりに目を向けようとする私が悪いのでしょう。

あ、興味なかったら迷いなくとばしてください。
次の作品のほうが断然面白いですから。

さて、前置きはこの辺にして…。
「何故戦争をテーマにした作品を書こうと思ったのか。」
語っていこうかな、と思います。

そもそも、というか、根本的な話から始めますが。

一般に、小説には現実離れした「世界観」が期待されます。
もちろん例外もありますが、世に出回る全ての小説には、その中に必ずと言っていいほど独自の世界観があります。

この世界観と、私たちの生きる世界との差こそが、小説を小説たらしめる所以だと、私は考えています。

(以後、それぞれ「小説の世界」と「読み手の世界」と呼ぶことにしましょう。分かりづらいので。)
例を挙げて説明しますと、国、時代、職業、性別、エトセトラ…。
世界観の差を生むものは様々です。

「異世界」には非人間的な存在と不思議な力が登場する。
「歴史」には過去の偉人や有名人たちが登場する。
「恋愛」には、彼氏役と彼女役が登場する。
「ミステリー」には探偵と、それを補佐する助手が登場する。 

何を書くか、によって求められるべき差が異なるわけです。
今回いろいろな思考を巡らせた結果、求めていた「差」に相応しかったのが、「戦争」という時代との「差」でした。

―現代の日本。
戦争の面影がほとんど消えてしまったこの国は、戦後七十年を超えた今、平和と呼ぶに値するなんとも幸せな状況で包まれています。
これが恒常化したせいでしょうか、現代の日本人は、「この平和が当たり前」という無意識的な確信をもって生きています。
俗にいう、普通、とか、常識、ってやつです。

空襲に備えて、現役の防空壕がある地域はありませんよね。
将来は立派な兵隊になりたい、なんて人はいませんよね。

「―だって、『現代の日本』だもの。」
この状況を、私はずっと生かしたい、と考えてきました。

「読み手の世界」の根本を真っ向から否定する世界。
「常識」が通用しない、「非・常識」な世界。

それこそが、私が「小説の世界」に求めたものでした。

見方がいて、敵がいて。
殺す者がいて、殺される者がいる。

国に背けば首を落とされ、
人殺しは勇者ともてはやされる。

法も倫理もありません。
自己利益のためなら、文字通りなんでもします。
まさに、我々の「読み手の世界」と対極をなす世界でしょう。

これに似た世界観はたびたび大衆娯楽の中に見られます。
現実離れした世界観は、私たちに刺激を与えるからです。

戦争もののアニメやドラマがなくならないのはそのためです。
歴史ものの小説が廃れず、売れ続けるのもそのためです。

本に書かれた活字を読む。たったそれだけのことで
私たちは勇者にも織田信長にも動物にも名探偵にも―。
なんにだってなることができる。

本当に人間の心というのは、複雑怪奇であり時に単純です。
 
「本を読むこと」は「教養をつけて豊かな人になること」だと
幼い頃から両親に教わってきましたが

「刺激を得ることで想像力を養うこと」が、根底にあるのだと
一人で納得しています。

 まあ、それはさておき。

小説は、刺激を得るのに効果的な手段の一つ、という訳です。

 しかしながら。

存在するすべての人間が小説を愛しているわけではありません。

活字を好まず、映像として観たいという人もいますし。
活字を読んでも、世界観が想像できない人もいます。

もちろん、否定なんてしません。安心してください。

人間多様性の叫ばれる社会で、個人差は当然のものです。

本を読まない人は教養がない、などと言うのは失礼です。

今だからこんな格好いいことを言ってはいますが、幼少期の両親は大の本嫌いだったと祖父母からこっそり聞いています。

ですので「なぜ小説を愛さないんだ!」なんてことは言いません。

みんな違ってみんないい。
この認め合いの精神を大切にして生きていきたいですね。

とはいえ、ここに一つ厄介な問題が生まれます。

世の中には本当にたくさんの人間がいて、その中には

「健全な方法で刺激が欲しい。でも、活字を読むのは嫌いだし
TVや映画よりももっと没入感のあるものがいい。」
という人が、少なからずいるわけです。

さあ、彼らが満足できる方法は一体何か?
答えは「ゲーム」というコンテンツなのです。

—少し、昔話をしましょう。

かつて、ゲームが生まれたばかりであった頃。
現実離れした世界を求めて遠出するよりもはるかに簡単で。
なにより自分で操作したとおりに動くという圧倒的な没入感。
あたかも自分が本当にその世界の中にいるような錯覚と共に、
 
 ゲームというコンテンツは、産声を上げました。 

以後驚異的な流行を見せ、今でも時々社会現象となるほどに人気を集めたゲーム。 

ソフトの中に存在した世界(昔はカセットでしたが)は、ゲーム制作会社が独自に作り出した「オリジナル」な世界でした。

(こちらも、以後「ゲームの世界」と呼ぶことにします。)

当時のゲームは「エンターテインメント」としての意味合いが非情に強く、あくまで企業が作り出した世界観の内側で、人々を楽しませていました。
「ポ*ットモンスター」などがそれに該当します。 
しかし一度成功したからといって、そのソフトだけを作り続けるわけにはいきません。

ゲームとて一つの立派なコンテンツ。

同じものだけを作り続けていては、飽きられてしまうからです。

実際に任天堂はマ*オ、ゼ*ダの伝説、カー*ィ……etc
沢山のキャラクターと世界観を作り出し、世に売り出しています。

やがて、任天堂以外にもゲーム制作に携わる企業が登場した時。

既存の世界観に、ゲーム要素を盛り込むというゲームの作り方が
企業の中で大きな転機となりました。

かつて、本というコンテンツがしたのと同じように
ゲームもまた様々な世界観の中に浸透しました。

異世界、歴史、恋愛、ミステリー……。
ありとあらゆるユーザーの欲求を満たそうと努力した結果―。

 ―遂に、「ある一線」を越えてしまったのです。

それが「戦争」でした。

―無論、このテーマ自体が悪いというわけではありません。
―誰も、何も悪くないのです。

戦争をテーマにしたゲームが作られ始めた、その時代。

皮肉にもそれは、情報通信技術やグラフィックが圧倒的進化を遂げ、非常にリアリティを持った映像が生まれた時代でした。

企業がこれを利用しない手はありません。

二つの要素が合わさってしまった結果。

「非常にリアリティを持った」「戦争」というゲームが誕生して
しまったのです。

近年スマートフォンでのゲームが主流化しつつある今、
俗にPUBGと呼ばれるジャンルが、それにあたります。

この種類のゲームが経営的に失敗したという例を、少なくとも私は聞いたことがありません。

それほどまでに、人々がその世界観を求めたのでしょう。
 
—戦争中の人々は、あれほどまでに平和を求めていたのに。
―皮肉な話ですね。

しかし。
ここでまた一つ、実に厄介な問題が生まれます。

ゲームの世界での「戦争」にエンターテインメント性を求めた故に「戦争」の根本が揺らぎ始めたのです。

何言ってんだこいつ、と思うでしょう。
妄言者だとおもわれるのは御免なので、詳しく説明します。

本来、「小説の世界」で描かれてきた「戦争」とは、かつて現実世界で起こっていた、「本当の意味での」戦争でした。

―弾が当たったら死ぬ。
―それでも、自由の為に。御国のために。

胸中に凄まじい葛藤と信念を持って、覚悟の上に銃を握り、戦闘機に乗り込んだ男達。

必死に涙をこらえながら、もう帰ってこないと分かっていながらも愛する夫と息子を戦場へ送り出す妻達。

―悲しい、の一言ぐらいでは到底表しきれないほど辛い現実が確かにあったのだと、思い起させてくれます。
しかし「ゲームの世界」で、それを再現するのは不可能です。

それを「ゲームの世界」でより再現しようとすればするほど
エンターテインメントとしての「ゲーム」が崩壊してゆくからです。

では、「戦争」のゲーム性を高めればよいのでは?
しかし、それは果たして「戦争」をテーマにしたとは言えるのか?

このジレンマから抜け出すために

試行錯誤の結果、「戦争」というテーマの根本を捻じ曲げることで
無理矢理「ゲームの世界」に「戦争」を押し込んだのです。

 つまり、何が言いたいか。

「ゲームの世界」の「戦争」は、もはや「戦争」ではない。
全く異なる別の何かである。

「ゲーム」というコンテンツは、「戦争」をテーマにした世界観を
完璧に内包できていないという意味で、欠陥である。

これだけです。

―とはいっても、現代の人々は恐らく「ゲーム」の「戦争」に「戦闘の爽快感」しか求めていないので、そんなことは気にも留めないでしょう。

では、捻じ曲げられた根本とは何か?

頭脳明晰な皆様ならもう御察しかもしれませんが

―それは「命の重み」です。

本当は家族の命を守ってやりたいのに、守り切れない夫の命。

まだ若く、将来も有望であったであろう青年の命。

何より、誰よりも愛した夫と息子を手放さなくてはならない妻の命。

古今東西、戦争を題材にした小説は例外なく全て、
「命の重み」なくしては語れない。

これが、「戦争」という世界観の原点であり、頂点なのだと。
これなくして「戦争」を語ってはならないのだと。

私は強く確信しています。
「ゲームの世界」の「戦争」は、これを真っ向から否定した上に
成り立っています。

そして何よりも、この「ゲームの世界」の「戦争」が、若者文化の中で主流化したこと。

―それが、私が「小説の世界」に「戦争」を求めた理由でした。
 
誤解されぬよう申し上げますが、
そういったゲームを批判、否定しよう、という気は全くありません。

体力ゲージというシステムも、回復薬というシステムも、
そのゲームが持つ独自の世界観なのでしょう。

しかし、それが本当の意味での戦争なのかと言われれば、残念ながら私は首を横に振らざるを得ません。

「ゲーム」としての機能性、娯楽性に重きを置くあまり、皮肉にもその本質から離れ始めた結果、「ゲームの世界」の「戦争」は戦う意味すら忘れ、失われる命の美しさ、儚ささえも捨て、もはや戦争とは程遠い、ただの無意味な殺し合いにまでなってしまったからです。

―あえて今、申し上げます。
私はただ戦争が書きたかったのではありません。

「戦争」というテーマの根本に気づけず、重箱の隅に追いやられた「命の重み」というテーマを知らないでいる。

同じ時代を生きる、同じ若者の一人として
そんな若者たちに、その根本の意味を知ってほしかったのです。

みんな違ってみんないい。
—この言葉の神髄にあるのは、いわば「受容」です。

―私は「ゲームの世界」の「戦争」を受容しています。
欠陥、とは言いましたが、あくまでそれは一面から見た話。
どんなコンテンツにも、長所と短所があります。

できることなら皆さんにも。
互いの愛するコンテンツの長所と短所を認め合った上で、
「小説の世界」の「戦争」を受容して頂けたらと思います。

長々とお付き合い頂き有難う御座いました。
それでは、また。
 
やまねこ


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