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幼少期に乗り越えた試練の話

みなさんは小さい頃の記憶はどれくらい残っているだろうか。僕はまだそれなりに残っているが、だんだんと忘れていってしまいそうなので、僕の幼少期に起きた人生を変えた出来事について書きたいと思う。

まだ2回目の投稿なのでお手柔らかに。


・2010年

僕は当時4歳だった。東京に家を建てたばかりだったが、父親の仕事の都合で上海に行くことになり、家族で上海に引っ越した。

事件はそこで起きた

ある日、僕はいきなり高熱を出した。上海では日本語が通じる病院は少なく、必然的に住んでいたマンションの下にあった病院に行った。今思うと、それがいけなかったのかもしれない。

病院に行ったものの、体調は良くならず、医者に「川崎病かもしれないが問題ない」と言われた。

これが僕の人生を狂わせた。

その病院で経過観察をしていたものの、よくならず、上海で長い間入院した。その後、医者に「治ったが定期検診に行ってほしい」と言われて、一時帰国することにした。


・一時帰国

日本に一時帰国した僕と母親は病院に行った。だが、その時にはもう手遅れだった。

僕たちは川崎病の後遺症と闘うことになった。

そして、一生毎朝薬を飲まなければいけなくなった。この薬が血の流れをよくするものだったこともあり、僕には運動制限がかかり、激しい運動ができなくなった。

僕はまだ小さかったためそこまでのショックを受けた記憶はないが、両親をはじめとする家族はとんでもないショックを受けたと思う。僕もなんとなくよくない状況にあることは感じていた気がする。

本来、川崎病というのは早期に治療すればほとんどの場合後遺症は残らず完治する。しかし、初期の対応が遅れると重大な後遺症が残る。

僕の場合、冠動脈という血管に大きな瘤ができてしまった。

詳しくはこの記事を見てもらいたい。

僕の場合、これが非常に大きく、経過観察が必要だったため、母親の実家がある下関に母親と2人で本帰国した。


・本帰国〜幼稚園時代

なんとか最悪の事態にはならなかったが、依然として瘤は残ったまま。下関で幼稚園に入ってからも経過観察は続いた。


(ちなみに、昨日の投稿に出てきた手紙はこの期間にもらったものが多い)

下関での日々はとても楽しかった(いつかまた別の文章で書きたいな)。

しかし、一年に一回カテーテル検査をしなければいけなかった。毎回入院して全身麻酔をかけ、脚の付け根からカテーテルという細い管を入れるのだ。これは毎回とても辛かったのを覚えているが、家族が支えてくれた。

母親は相当責任を感じて落ち込んでいたらしいが、今思うと僕の前ではそれを出さないようにしてくれていたと思う。

中でも印象に残っているのは、検査が終わった後にベットの上の棚から出てくるご褒美のおもちゃだ。確か仮面ライダーや戦隊モノのおもちゃだったと思う。毎回そのおもちゃがとても楽しみだったのを覚えている。

他にも、幼稚園の友達がわざわざお見舞いに来てくれてとっても嬉しかったことや、「ママのせいでごめんね」と繰り返す母親に宛てて書いた手紙を読んだ母親が号泣したこと、おじいちゃんやおばあちゃんたちが病院の売店でおもちゃやおかしを買ってくれたこと、おじいちゃんやおばあちゃんが運転してくれた病院までの道のりなどは鮮明に覚えている。

また、ずっと単身赴任だった父親が少し長い休みのたびに会いに来てくれるのが楽しみで嬉しくて、帰るときには毎回泣いていた気がする。

そして、小学校に上がるタイミングで家のある東京に引っ越すことになった。



・小学校入学〜小1の途中

無事に小学校に入学することはできたが僕の病気は残ったまま。これを隠すのはいけないと思い、母親と相談し、友達には自分の口から病気のことを言うことにした。

しかし、小学校1年生の語彙力だとこの状況をうまく説明することは難しかった。何人かにはわかってもらえたが、ちゃんと伝わらないことも多く、「なんで僕だけこんなことしなきゃいけないんだろう」と心の中で思ったのを覚えている。

その後、病院に行く間隔が前よりも長くなったため、小1の途中で父親のいる上海に転校することになった。



・小1の途中から小3の途中

上海では日本人学校に通うことになった。

学校では素晴らしい友達と先生に囲まれて、とても楽しい日々を送ることができた。

だけど、少し辛いこともあった。それは先ほども書いたが運動制限だ。僕はサッカーが大好きだった。本気で運動できないのに。

住んでいたマンションには大きな広場があり、放課後みんなでサッカーをしていた。

みんなはチームに入ってサッカーをしていたが、僕は運動制限でチームに入ってちゃんとやることができていなかったため下手くそだった。それでも毎日のようにみんなに混ざって、軽くだけれど、楽しくサッカーをしていた。

だけれど、やっぱり1人だけ全力で運動できないのは辛かったし、友達がサッカーの練習から帰ってくるのを見ると心が苦しくなったのを覚えている。

それでも楽しい日々を送れたのは両親のおかげだと思う。運動ができない分、週末は毎回どこかに連れて行ってくれてたのを覚えている。僕がどこか行きたいって言ったら、できるだけそれを叶えようとしてくれた。当時はそこまで考えていなかったが、今考えるとありがたいなと思うし、とっても幸せな子供だったなと思う。

また、友達や先生の存在も大きかった。運動ができない僕を仲間外れにせずに一緒に遊んでくれた友達には感謝しかないし、自分のことをとても気にかけてくれた小2の時の担任の先生は大好きだった。

当時とても仲が良かった友達とは今でも連絡を取るし、よく遊びに行く。彼らは僕の宝物のひとつだ。そして先生とも連絡を取っている。

そして、小3の途中で父親の転勤で香港に行くことになった。

上海にいた間、僕の病気の状況は大きく変化しなかった。


・小3の途中から小4の途中

香港でも、友達はたくさんでき、みんな僕の体のことを理解してくれて気遣ってくれた。本当に感謝している。彼らの一部ともいまだに連絡を取っている。

香港での生活もとても楽しかった。(上海や香港での話はまだ別で詳しく書きたいと思う。)

運動制限はかかったままで辛かったが、両親は相変わらずいろいろなところに連れて言ってくれたし、僕の要望をたくさん叶えてくれた。

が、事件は2015年の春に突然起こった。

上海にいる時から、長期休みのたびに検査をしに一時帰国をしていた。それまでの一時帰国は検査は面倒だったものの、毎回検査結果に問題はなく、現地にないゲームソフトやおもちゃ、カードゲームやお菓子などを一気にまとめ買いできるため、とても楽しいものだった。

しかし、2015年の春休みに一時帰国をして行った検査では結果が一気に悪くなった。それまで少しずつ解除されかけていた運動制限は一気に厳しいものになり、手術をしなければいけなくなった。

その結果を聞かされた時、小3だった僕は、何が何だか分からなくなった。

運動ができない?、手術をしなければいけない?、なんで僕だけこんな目に合わなくちゃいけないの。どうしてこんな辛いことになるの。そんなに悪いことしたのかな。

僕は毎晩泣いていた。

両親の懸命な説得、医者からの説明もあり、僕はなんとか夏に手術をすることを決断できた。

当時、僕もとても辛かったが、家族もとても辛かったと思う。それでも僕のサポートを必死にしてくれた家族には本当に感謝している。

そして夏。

小4になった僕はとても大きな手術を受けた。

これが僕が受けた手術だ。

手術室に入る直前、恐怖が僕を飲み込みそうになり、大泣きしたが、親や病院の先生たちが気持ちを落ち着かせてくれた。

結果は無事に成功。当時僕の担当をしてくれていた小児科の先生には感謝してもしきれない。たくさん迷惑をかけたと思うが、とても優しく接してくれた。他の何人かの先生や看護師さんたちにもとても感謝している。

手術の結果は無事に成功。

目を開けた時、僕は集中治療室にいた。

ほっとするより先に、看護師さんに納豆ご飯を口に詰め込まれたのを覚えている。(笑)

たしかテレビでは澤穂希さんが結婚したというニュースが流れていた。

その二つだけは覚えている。(笑)

術後、数日間傷が痛んだりしたことはあったが無事に退院することができた。当時とても気にしていた手術の傷は今ではかなり薄くなっていて、あまり気にならない。

手術をしたことによって、今まであざをできやすくしていた薬を飲む必要がなくなり、飲む薬は二つから一つになった。

そして最も大きかったのは、運動制限が解除されたことだった。

本当に本当に嬉しかった。今まで我慢してきて本当に良かったと心の底から思った。

その後、香港に戻ってすぐ、秋に家族で本帰国することが決まった。


・小4の途中〜現在

小4の途中で本帰国してからもうすぐ高校生になる現在まで、薬は一つ継続して飲み続けていて、年に数回定期検診に行っているが、大きな問題は特になく、”普通に”生活することができている。

薬はもう生活の一部になっているため、飲むことに全く苦痛を感じない(旅行の時とかに飲み忘れそうになることはあるが)。

定期検診もめんどくさいなぁと思うこともあるが、決して完治したわけではないので死ぬよりましだと思いながら行っている。(笑)

ここまで書いてきて思うが、最近”普通に”大好きなサッカーをしながら特に制限もなく生活ことへの感謝を忘れていた。

だけど、”普通の”生活は決して当たり前ではなく、日々に感謝しなければいけないんだなぁということを再認識することができた。

これからも”普通の”生活に感謝しながら生きていきたいと思う。

・終わりに

僕の拙い文章をここまで読んでくれてどうもありがとう。

もしこの文章を読んでいる人の中に闘病中の人や、大きな試練にぶつかっている人がいたら伝えたいことがある。

僕は、「神様はその人が乗り越えられる試練しか与えない」と思う。神様はきっと、「君なら乗り越えられる、頑張ってみ」って言って僕たちに壁を与えていて、それを頑張って乗り越えたら今まで見たこともないような素晴らしい景色が広がっていて、苦しかった経験や日々が自分の糧になって、そこからとんでもなく素晴らしい人生を送れるんだと信じている。

だから、今とんでもなく辛くてくじけそうでも、少しでも可能性があるなら諦めないで踏ん張ってみてほしい。1人で無理だったら家族や友達に助けを求めてもいい。実際に僕がたくさんの人に支えられてここまで来れたから。そして乗り越えたら、もう一生分の苦痛を味わったと思って前向きに生きて欲しい。きっとそこから先は素晴らしい景色が広がっているから。そして支えてくれた人にたくさん感謝しながら生きて行って欲しい。

また、もし大きな病気と闘う子どもを持っている方がこの文章を見ていたら伝えたいことがある。

僕の親もいまだにそうだが、子どもが大きな病気になると親はきっと自分を強く責めると思う。自分を責める気持ちももちろんわかるが、必要以上に自分のことを責めて辛い気持ちにならないで欲しい。僕も昔は毎日のように母親に「ごめんね」と言われていたが、親の責任だとは1ミリも思っていなかったし、「どうしてそんなに謝るの?」とまで思っていた。むしろ一緒に闘ってくれることが心強くて嬉しかった。だから、自分のことを責めて自己嫌悪になるのはやめて欲しいと思う。きっと親のことを恨む子どもはいないから。

最後に、僕も支えてくれた人への感謝を忘れずに、もし辛い人がいたら手を差し伸べられるような人間になりたいと思う。

ここまで長い文章を読んでくれて本当にありがとう。

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