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祖父の自伝(2)〜祖父の思いが今繋ぐもの

私の祖父の物語です。

祖父が生前書き残したものを
書き起こしました。


目次
はじめに

目次
第一部 家族
第二部 軍隊生活その1
第三部 軍隊生活その2と青年学校
第四部 農業丸の出航
第五部 適地適産物の模索
第六部 ぶどうの生い立ち
第七部 ぶどう狩り
第八部 千両 瓢箪 後記



家族 その1

おやじ吉蔵の記憶


明治16年8月20日。
金次郎の長男として生まれる。
明治38年 豊橋歩兵第18連隊の応召日、
対露戦争への参加。満州に出兵。

昭和の初期といえば農村恐慌時代で農家は
非常に苦しい生活の日々であったことは
衆知の通りである。

例えば我が家では電灯3個のうち一個は
休灯していたぐらいである。
又台所はほとんどの家が粗末で長床を
敷いている家は稀であった。

現金収入が少ないので日雇いに出ようと思うが仕事がない。
たまたま駒立地内で砂防工事が始まり村人達が競って出るようになり、人数が制限され
使って戴くのにも難しくなって来たそうだ。

この農村恐慌を乗り切るために
県より新しい村づくり対策事業の計画が
発表になった。

おやじは何とかしてこの枠に入れてもらい、
村に活力を与えない限り惨めなものだと
心に決めて、毎日のように各方面に陳情に
歩き回りやっとのことでその指定を
受けることが出来た。

駒立農村共同経営組合として認可され、
おやじ吉蔵が初代の組合長となる。

新しい村造りの経営内容は

一、加工部
味噌たまりの自家用加工

一、果樹部
原野を利用して栗、くるみの栽培

一、畜産物
種豚の飼育と子取り兎(うさぎ)の飼育
毛皮は軍用に、肉は自家用もしくは出荷

一、機械部
籾摺りの剃皮

などなどであった。

これらを実行するために作業場、加工場、
畜産場など建築が始まり、職人が我が家で
寝泊まりして仕事をしておられた覚えがある。

おふくろがよくこぼしていたが、父、吉蔵が今日は仕事をしてくれると思っていると、役場から郡農会からの呼びだしで農作業は遅れるばかり。武(武雄)手伝えとよく使われ嫌だったことを思い出す。

おやじは農業にも熱心で米作りについては
島根県の篤農家(とくのうか)、佐々木伊太郎さんの農法耕土の深さ「一寸一石」説を
取り入れ、念入りに青年を頼り深く耕す
土づくりに努力しておられた。

※一寸=3cm 一石=150kg 田んぼを3センチ深く耕せば150kg多くお米が取れるという米作りの言い伝えだそうです。

又、早植えによる増収法にも取り組み
八十八夜を目標に田植えをした。
普通よりひと月余りも早いので
頭が変ではないかと笑われ、
山伝えに人に見られないように苗を運び、
田植えをさせられたことを覚えている。
後には早植えをする人もだんだんと出て来た。

昭和7年7月1日の夜。
集中豪雨に襲われて駒立地内で山崩れ
283ヶ所と見るも痛々しい様相と化した。

村人は復興の言葉では言い表せない
苦難であった。
我が家でも家族総ぐるみの復興作業である。
武雄も仕事が出来るようになった。
学校はやめて手伝うだなぁと、間あるごとに
お手伝いをした。

おやじもこんな過労がもとで寝るようになり、3年ほど病床に伏し母の手厚い看病の
甲斐もなく昭和12年2月。
55歳を最後にこの世を去った。

「武雄も19になった。何とかなるだろう。
上手にやって行けよ」と亡くなっていったと
後になっておふくろが話す。

「ふーん」と言っただけ、
ただ淋しさを感じるのみだった。

その後、新しい村造りの経営も軌道に乗り目覚ましく発展をして来た。

自家用味噌たまりの加工も大変評判も良く、
部落内は申すに及ばず、他部落からも
注文が雑踏し、仕込みきれない盛況であった。

籾摺りも各方面から話がかけられて、
正月ごろまで休む間もないほどに忙殺され
嬉しい悲鳴であった。

栗の共同出荷。子豚の生産なども
立派な産地となり岩畜として登録の種豚も
出るようになった。

ある時、部落の全員集会の場で吉蔵の碑を建ててはと発言があり、全員一致で決議された。

まだ若く何も分からんままに皆さんの
後について石探しに回ったことを覚えている。
だが、気にいる良い石が見つからず
のびのびになってしまった。

当時のことで写真は無いが我が家にとって
身に余る立派な葬儀をお寺で出していただいた事など私の親への追憶として
皆様への感謝として脳裏に残されている。

戦後の食糧不足にも加工部の努力により
味噌たまりに不自由もなく経過したことは
事実である。
その後だんだん経済も成長し、品物も
豊富に出回り自然消滅となる。
又、機械部も個人で持つ人が出るようになり
自然の波に押されてしまった。

昭和58年駒立集落センターの新築により
公会堂(元作業場)の前で部落民全員で
写真を撮り、名残を惜しみ、加工場等
取り壊わされ思い出の夢は去っていった。

つづく。


私(リューラッキー)の感じたこと

私が小さい頃、当時まだあった公会堂に大きい味噌蔵があったことを思い出します。なんか見上げるような大きな味噌蔵に当時小さかった私はちょっと怖いような気持ちになったことを思い出します。その味噌蔵にこんな町の人たちの希望や喜びとか色んな思いがあったんですね。


また、昭和恐慌が昭和5年から6年にかけて、その後集中豪雨と一気に災難がやってきていたということですね。土砂崩れが200ヶ所以上ということで、当時の写真を思い返してみますに、木を植林したり伐採したり、ハゲ山になっていた。それが影響しているのでしょうか。

その時に村で力を合わせてやっていこうということになった。何ともすごい時代を駆け抜けた祖父の父の時代。55歳で亡くなった吉蔵さんはどんな人生を感じていたんだろう。

当たり前にある今の豊かな暮らしをありがたく感じます。

お読みいただきありがとうございます。

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