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祖父の自伝(22)〜米作り その一

私の祖父
ぶどう狩りのマルタ園初代園主、
中根武雄が生前書き残した自伝です。

時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ
自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。

米作り その一

米作りの第一歩

昔の人はよく「恵田極楽」「丹坂地獄」「駒立火の車」と言った。
農業は立地条件の良し悪しから大きく左右するので、こんな表現が飛んだと思う。

駒立は真福寺川の上流七料(7キロ)に位置し南に仏ヶ峯(標高273m)北に殿山(標高230m)に挟まれた標高110mから190mの所に東西四料(4キロ)余りに伸びた狭い土地で肥えているとは言えず、農業するには難儀な所だと言っても過言ではないだろう。

だが今は、食料不足で云々(うんぬん)を言っている場合ではない。
食うことが先ず第一で米作りに取り組む。
それが為には眼で見て話を聞き実行にうつせる人。篤農家(とくのうか)の門をくぐり尋ねる事が一番早道と、同志三人鈴木重幸氏、中根兼松氏と自分で長野県の黒沢浄さんの農法を視察することにした。

秋も深まる11月に出掛ける。
名鉄電車にて名古屋駅に着く。
長野県の切符が制限され、今日の分は終わりましたと断られた。
戦争の最中で止むを得ないことだなぁ、、、

さて今からどうするのだ。
日は暮れるし観念して、鈴木さんの親戚に腰を据えることにした。
明日からの行動について相談し、近くでと考え浮かんだのが、旭村大字万町の渡辺さんが福井式農法を取り入れておられることを思い出し、行くことにし地図を広げ道を調べ床に入る。

翌朝早く中央線に乗り、恵那明知線に乗り替え終点明知に着く。
駅員に道を尋ねたが交通の便は全くない。
歩くしかない。
簡単に思って来たがえらいことになった。

雨は降る、傘をさしての道中十料(10キロ)余り歩かねばならない。
矢作川づたいに足にまかせ、すたこらさっさと弥次喜多道中をはじめる。
見える物は山と川、こんにゃく芋とそば位の栽培で耕地らしきものは目に当たらない。
これでいいのかとちょっぴり心配になって来た。

渡辺さんに着いたが昼過ぎ遅かったような氣がする。

二度びっくり。
駒立が悪いと思っていたが上には上がある。
渡辺さんの家が、道路から細道を登ること500mくらい。隣に行くにも足仕度して行くほど離れた一軒家である。

幸いにも雨降りで、在宅で会うことが出来、苦労も忘れる程にうれしかった。

すごく立派な方で年頃50前後。
ようこそこんな所へ尋ねて来てくれたと親切丁寧に教えて戴いた。
渡辺さんは、福井さんの所に二度も視察しておられるそうだ。
真実を見ておられるから話にも自信がこもっていた。
兎に角私に聞くより福井先生に会って見なさい。日本一の篤農家です。
鳥取県は遠いが、行っただけの価値は必ずありますと進められ、行くことを約束して山を下った。

雨はしきりに降り続くので、しっかりぬれてしまった。
小渡まで行かなくては泊まる所もない。
もう少しだと拍車を掛けても、草臥れ(くたびれ)足がなかなか先に進まなかった。

旅館に着いた時はもう日はどっぷり暮れていた。
ぬれねずみで遅い為か、旅館も余り良い返事をしない。
よくわけを話した末、泊まることが許された。

やれやれと足を伸ばして、忘れない先にと渡辺さんの話を整理する。
稲穂を出し、机の上に並べ話をしている所へ女中が入って来た。


「なんだね稲穂なんか並べてとびっくり。私も長くいますが、こんな田舎に田んぼの視察なんて聞いたことがない」
とびっくり顔。

「そうじゃないよ、灯台下暗しというものだ。万町の渡辺さんと言う立派な篤農家が見えるだよ。」
と話ははずむ。

外では雨足も強くしきりに賑やかく、雨垂れが話の調子を取っているようだった。



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