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祖父の自伝(9)〜祖父の思いが今繋ぐもの

私の祖父、
ぶどう狩りのマルタ園初代園主 
中根武雄が生前書き残した自伝です。


時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ、自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。

第二部 軍隊生活

その三
第一期検閲と出征


焼きつける太陽のもと小幡ヶ原、
本地ヶ原と実践訓練に耐え忍んだ後、第一期検閲の為豊橋高師ヶ原厩舎
(きゅうしゃ)に行軍途中岡崎市福岡小学校校庭に砲車、厩(うまや)の
設営。兵士は民家に宿営した。
入営以来始めて解放され、温かい
心からのもてなしに甘え畳の上
寝心地は又格別で苦しい中から
忘れられない甘い感激であった。

いよいよ検閲がはじまる。
通信手は陣地が決まると素早く
山頂の観測所と砲列陣地の電話連絡を取るのが任務である。
通信下士官の命令により一、二番は
受話器に三番以下電話線の敷設作業。初年兵は被覆線の運搬を1ヶ抱き背中に1ヶ背負って一刻も早く敷設しながら
走り続けるのである。

八月酷暑汗びっしょり喉が乾いて
たまらない。水筒ぐらいでは追いつかん。

水が飲みたい。

幸いにも田んぼがあった。
早いことをせねば通れる畦に(あぜ)にかがんで呑もうとうつむく。
途端に背負っていた被覆線が頭の上に落ちて来た。
目から星が出た。
頭はグラグラする。
大きなコブが出来る。
任務は果たさなければならない。
走り続けたが一里が千里の
思いである。

1週間の検閲は終了。
帰営の準備。
通信下士官の当番で、馬に鞍を
乗せようと後ろに回るといきなり蹴られ仰向けに転倒。
後は覚えていない。
胸部の乳の周り丸く血が死んで
腫れている。診断を受ければ1週間位の練兵休はとれる。その休むことが嫌で我慢したがほんとうに痛かった。

初年兵は何をやるにも考えず我武者羅だけで要領がない。痛さより悔し涙が先に出る。

8月2日、野砲兵第38連隊は転居。
第九中隊に編入。
一等兵に昇級。
南支派遣となり出征も近づきお別れの二泊三日。
始めての外泊が許可された。
営門を出る。
なんとも言えない気持ちでいっぱい。心はあせるが電車は遠い。
いよいよ征途(せいと)につくとあって親族知人に盛大な歓迎を受ける。
あっという間に三日は過ぎ、
多くの人に最後と見送られ
懐かしい我が古里を後にした。

熱田神宮に武運長久祈願。
軍装検査最後の面会も終わり出発の
前日営庭において出陣式が厳粛に
行われ酒宴もあった。
夜になって食中毒で半数以上の兵隊が苦しみだし大騒ぎとなり予期もしない直前の大試練であった。
余りにも直前の出来事で重患者は
出征取りやめになった。

昭和14年10月15日屯営出発。
沿道市民の旗の波に送られ堂々と
行進感激新たに滅私奉公を誓う。
笹島駅に到着。砲車馬匹兵器などなど積載。列車の人となる。
16日大阪港出航。
翌朝関門海峡を通過。
故国が見えなくなるに従い
一抹の淋しさを覚ゆる。
輸送船打出丸は玄界灘を通過。
船内は狭く船室は暑く悪臭の船内で
厩当番大波にもまれ船酔いは続出。
馬も船酔いで一頭死亡。
玄界灘の荒海を実感した。

10月24日南支黄浦港に上陸。
始めてみる大陸に第一歩。
印象は平坦な殺風景なところであったと記憶している。
広東を経て大鎮に到着警備に着く。
毎夜付近の部落から犬の遠吠え人の鳴き声と銃声が淋しく聞こえて来る。
あちこちに見る戦死者の墓標。
見るもの見る人全部が違う。
戦地の匂いがだんだんと
染み込んで来る。

12月中旬。翁英作戦(おうえいさくせん)に出勤。俺は本部で下士官教育を受けていたので不参加。
15年3月大鎮警備から三水警備に
変わる。三水は(広三鉄道)広東から佛山を経て終着駅北江西江の分岐する交通の要衛の地である。
当時中国軍より接収した二十糎加農砲(にじゅっせんちきゃのんほう)裏山北砲台に二門。河を渡った南砲台に一門の警備も兼ねる。
河の西側には敵の歩哨が見える。
互いに睨み合いの最前線である。

4月に初年兵が入隊。
古兵気分でやれやれである。

5月。良口作戦がはじまり編成が組まれた。中根上等兵は初年兵教育と留守隊警備要員として残こり留守隊に加わる。

おりもおり、名古屋より慰問団が
来て演芸の最中、敵の攻撃があり
北砲台の加農砲がうなりを生じた。
はじめて聞く砲台の偉大さには
びっくりした。
その後手薄さと悟ったか毎晩のように迫撃砲の夜襲で非常呼集が続いたが幸いにも負傷者はいなかった。



軍隊生活その四
〜マラリアで入院内還となる〜へつづく

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