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愛について幾つかの覚書

自分がすぐに人を好きになってしまうのは、自分が愛されないことに対する防御行動のひとつなのかもしれないとふと思う。愛されないから愛する。だがそれは本来あるべき真実の愛、純粋な愛ではなく防御行動に過ぎない見せかけの愛であり(真実の愛、純粋な愛についての定義づけは難しいが)、故に愛しても愛されず、愛されないからまた防御行動として人を愛してしまう……歪んだ愛情のループから抜け出せずにいる。

愛という言葉が英語のIと音を同じくしているのは偶然ではないように思う。I(=私)という概念は他人がいることによって初めて必要となるものであり、人は他人によって自己を定義してゆくものだ。私が私であることは、私が誰かを愛すること/私が誰かに愛されることと時に同義だ。アイデンティティという言葉がアイから始まるのも偶然ではないと言ったらそれは流石にこじつけになるだろうか?

どうやら自分は愛されたいと強烈に願っている。しかしこれまでの自分を鑑みるに、いざ誰かに愛されると怖くなって拒絶反応を起こしてしまうようなところがある。あ、愛されてしまう!となると、わざと素っ気なく振舞ったり連絡を返さなかったりしてしまうのだ。自分は何を恐れているのだろう?当然そんなことをしているうちに相手は離れていって、離れていくのはつらくて追いかけて、でも大抵もう手遅れで、自分はまた愛を失ってしまうのだ。

そも愛とは何ぞやと思う。真実の愛?純粋な愛?愛にそんな段階や程度があるものだろうか。自分には愛が分からぬ。以前も書いたような気がするが自分が愛だと思っているものは愛の周辺にある雑多な感情の集合体に過ぎず、肝心要の愛そのものについては欠落しているような感覚がある。会いたい、もっと話がしたい、もっと知りたい、触りたい、触って欲しい、喜ばせたい、笑わせたい、深く繋がりたい……これらが愛に付随する周辺事象だということは分かるのだが、では愛とは?となるとまるで分からぬ。

あの人は皆に愛されているなぁと他人を羨むことがある。恋人や配偶者から当たり前に愛されている他人を羨むことがある。自分にはそれがないと感じているからだ。恋人(またはそれに準ずるような関係の相手)に対しても、この人は自分を愛してくれているわけではなく、自分の愛を受け入れてくれているだけなのだと思ってしまう。自分は本当に愛されていないのだろうか?愛を求め愛を得られなかった経験の積み重ねが深い錆のようになって自分に食い込んで認知を歪めているだけで、本当は自分も愛されているのかもしれない。そうだったらいいのにな、そうだったらいいのにな。

こうやって理屈を捏ねてしまうのも自分の防御行動のような気がする。こうやって自分の弱みやうじうじした所をわざわざ文章にまとめて公開してしまうのもきっと防御行動だし、そうやって誰かに構って欲しい、誰かに愛して欲しいのだろう。『誰か』だなんて書き方をするのも、本当は『誰か』だなんて曖昧な対象じゃなくて具体的な『誰か』がいるのだ。こうやって自分の弱さや浅はかさが自分で見えてしまうのも嫌なものだが、そんな弱くて浅はかな自分があながち嫌いじゃないのもまた厄介なものだ。あ、こんな風に自分で自分を嫌いじゃないと思う自己愛もまた、愛されぬことに対する防御行動のひとつなのかもしれない。

とりとめもなく、愛について幾つかの覚え書きでした。答えはありません。おそらく、永遠に。

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