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97年の僕から

公演終わってひと息ついて、自分の表現の原点に立ち返ってみようと思った僕は、古いノートを引っ張り出した。それは中学〜高校ぐらいの頃に書いていた詩のノート。1冊目は1994年から始まっている。パラパラとめくって巻末に書かれていた文章を読んで僕はハッとした。そこにはこう書かれていた。

幾年か後の植野龍二よ
この詩たちを見て
君の歴史を見て欲しい
ここには
君が決して見せない
本気の君がいる
そんな裸の君を見て
君の歴史を想って欲しい
そして君の糧として欲しい

1997.4.15

それはまさにドンピシャに今の自分に宛てたような文章だった。当時の自分もまさか25年後の自分にこの文章が刺さるとは思ってもみなかっただろう。1997年の4月。高校を卒業したばかりの時か?僕は自分で過去の自分に感嘆していた。25年の歳を重ねてすっかりおっさんになった今でも、僕は相変わらず他人に本気を見せるのは苦手で、でも誰宛てでもない文章でなら少し裸の自分を見せられるようなところも変わっていない。今の僕が触れたかった表現の原点、それはそうやって刻み付けてきた裸の自分の歴史だ。僕は97年の自分のアドバイスに従って、自分の裸の歴史である詩たちを読んだ。荒削りで幼稚で不器用で頭でっかちな自分の文章たち。しかしそれはどれもキラキラと輝いていて、25年の時を経てなお愛おしい僕の分身たちだった。

僕が本気の自分をなかなか見せられないのは、裸の自分をなかなか見せられないのは、シンプルに嫌われたくないからだ。受け入れられないのが怖いからだ。愛されないのが苦しいからだ。でもこれだけ自分で自分の書いたものを好きだと思えるのなら、裸の自分を面白く愛おしいと思えるのなら、誰かに愛される価値だってあるのかもしれない。97年の自分にトンと背中を押されたような気持ちになって、2022年の僕は少しだけ前を向けたのでありました。またぼちぼちと歩いていこうと思います。

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