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技術の粋

散歩の仕方を忘れたからと言ってなめくじを論理的に諭すにはまだ向こう岸から渡ってくるサムシングが足りない。得点の匂いが漂う後半戦の独特の雰囲気に飲まれてしまってワンワンワワーン、散々なターン。友達同士だからって言っていいことと悪いことがあるし、踊りたくなることだってあるだろってなもんよ。

財布を忘れて陽気でいられる精神を見習いたい見習いたい。

想像の余地があるだけマシだろうと兄は言う。私はねじれて田んぼの真ん中で国語の教科書の32ページを大声で朗読する。空を見たことがない少女の話はこの青空の下で読むとまた格別である。何を偉そうに講釈を垂れていやがるんだ身を弁えろ。ソクラテスは朝は食べない派だったと聞く。しょんぼり顔で仕事に行くなら友達と会う予定までに沼地の水を抜いてポップコーンを閉じ込めてしまおう。


……みたいな文章をたまに書く。心に浮かんだものを筆の赴くまま、なるべくフィルターを通さずそのまま書き出してしまうという、ライティングセラピー的な手法だ。物語としての辻褄も合わせなくていい、意味も通らなくていい。しかしこう改めて見てみると、意外と感覚ではなく技術で書いているなと思うところがある。

荒唐無稽に書きなぐりながらも、ギリギリ文章として破綻しない範囲には収める技術。なるべく色々な言葉を使えるよう色々な引き出しからランダムに言葉を持ってくる技術。文末のバリエーション。パロディや引用も感覚ではなく知識だ。この文筆手法のはある種のトレーニング的でもあると思うのだが、感性を鍛えるというよりはむしろ技術的なトレーニングの方が大きいのかもしれない。そもそも、「なるべくフィルターを外す」というのも技術のひとつなのである。


トビウオ図鑑の発見から玉乗り選手は大いに泣き顔が上手くなった。品性の問題だとするならばカナリヤの万華鏡を一喜一憂する無策を嘆くがいい。楽天家であるが故にpianoの練習に通い続けることは苦痛であり続けて、蛹から蝶になるように僕はセーラームーンになった。無理難題やん。そこまで言うなら大盛り無料で提供することを試みよう。向こう岸にサムシングを届ける簡単なお仕事で私は電動自転車を買います。

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