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コンプラとか配慮とか

毎日好き勝手に書いているようで、細かいことを色々気にしている。こんなことを書いたら引かれるのではないか、誰かを傷付けることになるのではないか、この表現は差別的に取られるのではないか、あまり面白くないのではないか…。何かを表現する者として当然の配慮ではあるけど、時々めんどくさいなぁと思うことがあるのも事実だ。

政治的な話や、性的な話、セクシャルマイノリティに関する話は特に配慮している自覚がある。恋愛の話はよく書くわけだが、性的な部分はどこまで書いていいのか、ボーイミーツガールの物語がベストなのかはいつも葛藤しているように思う。一人称『私』視点にして主人公の性別を曖昧にしている時があるのも、物語に深みを持たせるためと言うよりはそういった配慮のためという側面が大きい。恋愛の話はマガジンにまとめて、『不器用な男女の恋の物語』と銘打っているが、『男女の恋』だけなのか!とイチャモンを付けられやしないかと思っている部分もある。区切りを付けるならば『不器用な』『男女の恋の物語』ではなく、『不器用な男女』の『恋の物語』なのだが、異性愛だけのことなのかと取られても仕方のない言い回しだし、そもそも『不器用な』の対象を『男』と『女』に限定してしまっていることに関しては申し開きの余地がない。

こういう配慮の裏には、誰かを傷付けたくない、嫌な思いをさせたくないという思いがある。僕は誰かを傷付けること、嫌な思いをさせることがとても嫌なのだ。しかし表現に身を置く以上、自分の創作が意図しない誰かを傷付ける可能性があることも理解している。恋愛の話を書けば恋愛で嫌な思いをした誰かを傷付けるかもしれないし、家族の話を書けば家族を持たない誰かを傷付けるかもしれない、何かを食べて美味しかったなんて話でさえ、アレルギーに苦しむ誰かを傷付ける可能性がある。無数の網をくぐり抜けて誰も傷付けないものを書くのは難しいし、そもそも誰も傷付けない表現を第一に目指して書いているわけではない。だからと言って面白ければ誰かを傷付けていいわけでもない。明確な基準があるわけでもないし、表現を続ける以上ずっと考え続けねばならないことは理解しつつ、時々めんどくさいよねという話だ。

差別や偏見に対する配慮は表現を狭めてきた。しかし同時に、表現の受容を広げてきたものでもある。過剰な配慮を求めすぎず、適切な配慮はしつつ、面白いのためならばそこに踏み込む度量も持ちつつ、表現者は歩いていくしかないんでしょうね…。

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