一番好きな映画は?

もしもあなたが、まだあまり仲良くない相手と話していて、その相手が映画好きだということを知ったとしても、『一番好きな映画は何?』なんて質問は軽率にしない方がいい。

一口に映画好きと言っても、話題の映画をそれなりに楽しんでいる人もいれば、年間数百本レベルで映画を見倒している猛者もいる。まずあなたは相手の『映画好き』がどのくらいなのかをある程度見極める必要がある。そしてその相手の『映画好き』が度を超えていた場合、そういう人の『一番好きな映画』なんてものは、数百、或いは数千という名だたる作品たちの頂点に君臨する作品だということを知っておかねばならない。そこにはきっと恐ろしいまでのこだわりと思い入れがある。そのこだわりと思い入れを受け止めて会話を楽しく進める覚悟が、果たしてあなたにはあるだろうか?しかもその作品は、残念ながらあなたが見たことも聞いたこともない作品である可能性が高いのだ。

『映画好き』の一人として、僭越ながら僕を例に出してみよう。今はそれほどでもないが、僕もかつては年間100本以上の映画を観ていたこともあるくらいには映画好きだ(昨日も『竜とそばかすの姫』を観てきました)。当然僕も、『一番好きな映画は何?』という質問を山ほどされてきた。そういう時にまず思い浮かぶ作品は、チェコのシュルレアリストが作った15分の短編アニメーション映画である。ここで僕は相手を見極めようとする。この映画を知っているだろうか?短編アニメーション映画なんかを挙げたら引いてしまうんじゃないだろうか?チェコ?シュルレアリスト?はぁ?だなんて言って呆れてしまわないだろうか…。短い葛藤の末、僕は大抵この、『一番好きな映画』を引っ込めることになる。次に浮かぶのは、ポーランドの巨匠クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『デカローグ』より、『ある希望に関する物語』。しかしこれは正確には映画ではなくテレビドラマで、一番好きな映画として挙げるのは適切ではないかもしれない。その辺も含めて説明してちゃんと分かってくれるだろうか?ポーランドだキェシロフスキだと僕が語ったところで、どうせ気のないリアクションをされるんだろうな…。また却下だ。キアロスタミのジグザグ道三部作はどうだろうか?アン・リーの父親三部作はどうだ?いや三部作を挙げるのも邪道だろ。ダメだ。と言ってここで嘘を挙げてしまうのも映画好きとしては許せない。きちんと『一番好きな映画』と言っても差し支えない作品で、かつ相手がある程度食いつく作品で、その上映画好きとして舐められないような作品でなければならないのだ。考え抜いた僕が行き着いた落としどころは、『劇場版クレヨンしんちゃん、嵐を呼ぶ!モーレツ!オトナ帝国の逆襲』だった。一番好きと言ってもいいくらい大好きな映画で、素晴らしくかつ個性的な映画で、知名度も高い、ちょうどいい『一番好きな映画』。「へー、映画好きなんだ。じゃあ一番好きな映画は何?」「うーん、一番って言われると難しいけど、クレヨンしんちゃんの、『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』かな」たったこれだけのやり取りの裏に、これだけの葛藤があるのである。

少しはお分かりいただけただろうか?もし相手が映画好きだということを知ったとしても、『一番好きな映画は何?』なんて質問は軽率にしない方がいい。しかしもしもあなたが、ちゃんと相手の挙げる『一番好きな映画』の話をしっかりと興味深く受け止められるならば、『一番好きな映画は何?』という質問は、映画が好きな相手のことを深く知ることが出来るとてもいい機会になるかもしれない。しっかりと覚悟をした上でなら、どうか勇気を持って質問してみて欲しい。相手はきっと、チェコの短編アニメーション映画の話やポーランドのテレビドラマの話やイランの監督の三部作の話を嬉々としてしてくれることだろう。

ちなみに、『一番好きな漫画は?』とか『一番好きなアーティストは?』みたいな質問もこれに準じる場合がある。「うーん、一番って言われると難しいけど、やっぱりミスチルかな」と言った相手の、本当に一番好きなアーティストの話を聞いてみるのも面白いかもしれませんね。

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