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伝え導くこと

40半ばになり、若者に経験や技術を伝え導く年齢になったのだなと思う。一方で自分自身まだまだ学びの途中にあり、自分のような未熟者に伝えられることなどありはしないとも思う。それでも意見を求められれば自分なりに何かを伝えることもあるし、求められずともお節介を焼いてしまうこともある。それが人間だ。

仮に10年前の自分に何かを指導するとして、自分はどういう方法を取るだろうなと考える。今よりも10年未熟な自分。伝えたいことは山ほどある。それは10年間自分が試行錯誤しながら得てきたものだ。それを伝えるということは、10年の試行錯誤を凝縮してショートカットして伝えるということになる。だがそれを、自分が試行錯誤して得てきた以上に実感を伴って伝えることが出来るだろうか?僕が何かを伝えることによって、僕が10年間試行錯誤しながら得てきた以上のものを得る10年間を与えることが出来るだろうか?そうだとは言い難いところがある。

若者に経験や技術を伝え導くとは、つまり若者には自分のような苦労をさせたくないという老婆心なのだと思う。人類はそうやって今日まで発展を重ねてきた。一方で、若いうちの苦労は買ってでもしろという言葉もある。実感を伴って経験した上でないと人は学ばないものだ。相反する2つの考え方、しかし双方は矛盾せずに混在し得る。

長々と言い訳めいた前置きをしてしまった。これは若者に向けた文章である。何が言いたいかというと、僕は僕なりに若者に何かを伝える準備があるということだ。昨日、悩める若者たち(のように見えた)の舞台を見た。年長者として、先輩として、自分は何かを伝えられるかもしれない、伝えるべきかもしれないと思いながらも、そんなことは烏滸がましいとも思ってしまった。何かを伝えられるかもしれないし、伝えるべきだったかもしれないし、それは烏滸がましいお節介でもある。これまた矛盾せずに全て混在することだ。しかし求められた時には真摯に若者と向き合い、きちんと何かを伝え、時には導く覚悟だけは持っておこう、そんなことを思った夜だった。

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