【ショートショート】下心あれば糸
ゆっくり、ゆうっくりと下ろす。下へ下へ。重力の底力を信じて。カンダタを救った蜘蛛の糸のように。細心の注意を払って。
くわえた煙草をコンクリの上に置き、腹ばいになって微調整する。ちょっとばかり無間地獄の方へ流れている。もしかすると下の方では風が吹いているのかもしれない。地獄では、地域ごとの寒暖差が大きい関係で、地表近くでも変な気流が発生しがちだ。
「ちょっと変わってくんない。血の池から上がってくる湯気が、目に染みる」
煙草を拾い上げ、大気中に待機中の天使に声をかける。エアリアルの類は、普段は空気の中に溶けていて姿が見えない。だから恥知らずな格好をしている。俺は煙草をふかして、文字通り奴らを煙に巻く。プライベートな姿を覗き見る趣味はない。
カンダタたちがいた頃はシンプルでよかった。悪人は自分で自分を悪人だと思っていたし、ついやらかしてしまう自分の善行にも無自覚だった。ところが最近の悪人は、自ら些細な善行を掘り返して、わざわざ報告までしてくる。「ゴミヒロッタ。イトスグオロセ」ってわけだ。
新しい煙草を開けながら見ていると、さすがのエアリアルたちも苦戦している。善行の総量と糸の重量の比率は決まっている。ゴミ拾いをしたぐらいじゃ、10デニールの太さも稼げない。蜘蛛の糸のような強靭さがあるならともかく、うちの部署が使っているのはストッキングの糸みたいな化学繊維の糸。絶対によじ登れない。どころか、掴まってぶら下がることもできないだろう。
エアリアルたちが、俺の頭の周りをぶんぶん飛び回る。煙草の煙が渦を巻く。しかたない。俺は自分の髪の毛を束で掴み、根っこの部分に煙草を押し付けた。じゅうという音と共に、肉の焼けるにおいが漂い、頭皮から解き放たれた髪の束をエアリアルたちに差し出した。髪はどうせまた生えてくる。
エアリアルたちが手分けして、俺の髪の毛を糸に結び付けていく。これで地獄までは届くだろう。登れなかったとしても文句は言えまい。カンダタだって、わずかなチャンスを自分勝手な欲望でふいにした。自分勝手な欲望で善行を報告してきたやつは、すでにチャンスをふいにしている。
さて、と上を見る。どうやら俺の自己犠牲も無駄じゃなかったようだ。エアリアルたちが良いように報告してくれたのかもしれない。こいつらにも感謝だ。
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