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鬼が笑う話

今年12月上演予定の脚本の手直しも終わり、僕は今、純真舞台さんからお願いされている、2025年上演予定の新作を考えているところだ。まだ詳しいことは何も言えないが、おそらく来年後半に上演されることになるだろう。今年の12月に第1回本公演を行ってから、第2回まで、また間が空くことになりそうだという。

だから、まだだいぶ時間があるように思えるが、実はそうでもない。あちらのスケジュールでは、来年初め頃からキャストのあたりをつけ始めたいのだという。ということは、それまでに脚本が、最低でも第1稿は上がっていないといけない。となると、締め切りまであと半年ということになる。


半年を長いと思うか短いと思うかは、人それぞれだろう。僕の書くスピードからしたら、もうそろそろ大まかな構想くらいは作っておかないといけない。

実は、もうネタはある。純真舞台さんと軽く打合せをして、それでいきましょう、ということになった。今年の12月の作品とは、だいぶテイストが違ったものになりそうである。それでも、来年、それをやることに意義があるということになった。

僕の場合、常にネタは自分の外側にある。自分が言いたいこと、自分の主張というより、自分に見えていることを書く。見えているということは、自分の外側にあるものだ。ただ、それを見ることによって、僕の内面に何らかの変化が生じる。水に石を投げ入れると、水面に波紋が広がっていくように、僕の中で何かがざわめく。それを捉えた上で、外側にあるもの、外側に広がる世界を書く。それが僕の創作に対する態度だ。


次作では、完全に「現代」の世界を描く予定である。といっても、普通の会話劇では収まらない(といって、特別何らかの演劇的な仕掛けがあるわけでもないのだが)。「芝居」という、目の前で行われるフィクションの世界だからこそ描ける、そんな作品にしたい。前にも書いたかも知れないが、映像と舞台では、リアリズムの幅というか、質が違う。新劇(こういうカテゴリーも今や死語だが)は、映像的リアリズムこそが求めるべきリアリズムだと思っている芝居だと思うが、それでは芝居が死んでしまう。それが言い過ぎであれば、芝居としての面白みがない。「それ、映像でやってもいいよね」と思わせられる舞台は、僕にはあまりピンとこない。舞台のリアリズムを意識して、何ならそこからはみ出してしまうくらいのものが書けたら素敵だなと思う。


まだはっきり決まったわけではないし、ネタバレもできないので、これ以上詳しいことは書けないのだが、新しいことを考えるのは楽しい。「来年のことを言うと鬼が笑う」というが、僕自身、来年はいろいろな意味で節目の年となる。是非、いい形で納めたい。

また、来年になるかは分からないが、僕にはずっと以前、学生時代に構想があった作品がある。その時点の僕の力量では、自分が想定するような作品にはならないと思い、ずっと封印してきた。だが、今なら書ける気がする。それも早く形にしたい。あの頃僕は、その作品を自分の最後の舞台作品にしようと考えていた。今はそうは考えていないが、それ位、力を入れて作ろうと、当時から思っていたのである。来年もし形にできたら嬉しい。


来年のことばかり思い付くが、今年はまだ半分ある。スキルシェアサイトもあるので、上記のもの以外で何を書くことになるか分からない。とにかく枯渇しないように、今のうちにインプットしながら次作の構想を練ることにしよう。

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