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思いもかけない可能性

やっとスキルシェアサイトで受注した脚本の仕事が一段落した。生成AIが盛り上がっているので、僕の仕事もいつまであるのだろうかと、戦々恐々としている。

それはさておき、このnoteの記事が、ある人の記事によってピックアップされた。そのことで、たくさんの方が紹介された記事を読んで下さっただけでなく、僕の記事を遡って読んで下さった方もいて、「いいね」の数も増えた。とても嬉しかったし、選んで下さった方に感謝している。

ところが、その方が先日記事をアップし、その中で、他人の記事を紹介するシリーズを「封印」すると書かれていた。理由は、そのシリーズはたくさんの人に読まれているのだが、そのことで、自分が何を期待されているのかと、何を書きたいのかの乖離が、だんだん大きくなってきたというのだ。だから、そこに甘えることなく、自分が本当に書きたいこと、読んで欲しいものに、より多くの読者を集めて勝負をしたい。大まかに言えば、こういうことである。キラーコンテンツを封印して、自分がやりたいことで勝負する。なかなか勇気のいることである。


そういう僕も、ずっと昔、まだ学生上がりの頃、芝居をやろうとして、当時主流だった、作・演出・出演全てを兼ねる形を選択した。いくつか作品を上演した後、出演していた近しい演者に、こう言われた。

「あなたは、脚本家になりたいのですか?演出家をやりたいのですか?それとも、俳優をやっていきたいのですか?」

僕は、言葉に詰まってしまった。本当に当時は、この3つを兼ねることが、ごく当たり前だった時代である。僕は無意識のうちに3つともそれなりにこなせているつもりだった。でも、その俳優から見たら、どれもが中途半端だったのではないだろうか。だから敢えて、そういう質問をしたのである。

後年、僕はよくよく考えた挙句、脚本家を選んだ。作品全体を演出するのも、俳優として板に立つのも、それぞれに面白さがあった。でも、演出家としても俳優としても、何か飛び抜けたものを持ってはいないこと、それ故、続けても上に上がれないどころか、基準点すらクリアできない恐れがあるのも、薄々勘付いていた。脚本を書くことだけが、他の人より飛び抜けているとは言えないまでも、人並み(この界隈で求められる水準に何とか達している)にはできる。そう思ったから、脚本家として、その道を追究する道を選んだのである。自分で選んだ道なので、どんなに辛くても文句は言えないし、どんなに売れなくても、言い訳はできない。そして、信じられるのは自分だけだ。


キラーコンテンツを封じたその方も、逃げ道を塞ぎ、ある意味自分を追い込んで、そこから生まれるパワーで文章を生み出していこうとされているのだろう。その気持ちは、ジャンルは違えど、同じ物書きとしてよく理解できる。

一方で、自分が進んで書きたいと思っていなかった方向性の文章が、思った以上に読まれ、支持されたというのは、決してマイナスなだけではないと思う。極端な例えだが、ロックでデビューした歌手が、事務所の方針から、畑違いの演歌を歌わされたところ、思いもかけずに空前のヒットを記録してしまった、といった類のことも世の中にはある。その場合、本当にやりたかったこととは別のところ、自分から無意識のうちに避けていたようなところに、実は実力を発揮できる場所があった、とも考えられる。「世界のニナガワ」と言われた故蜷川幸雄氏は、最初は俳優としてキャリアをスタートさせている。しかし、蜷川氏の本当の才能は、別のところ=演出にあったのだ。

やりたいことにあくまでもこだわるか、必ずしも一番やりたいことではないが、実は自分の能力やセンスを活かせる場所が他にあることを認めて、そちらに舵を切るか。これは本当に人それぞれである。何が正解ということもない。だから人生は面白いとも言える。


僕は、今のところ脚本一直線だが、他のジャンルで芽が出たら、そちらにもチャレンジしていくことはやぶさかではない。自分の可能性は、少しでもあるものは潰したくないからである。いつ、どう転がるか分からないが、当面は現状のままいくのだろう。せいぜい、生成AIに活動の場を奪われないように、精進努力していく。

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