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私がファッションにお金を使う理由。「所有」の必要性。ブランドや流行を追うのはただの「消費」。

1.まえがき

学生時代からそれなりに投資してきた「ファッション」なのだが、そこにはそれなりの理由がある。服を買うとはどういうことなのか?所有するために消費をしてしまう人たちを登場させ、説明していく。

※私は皆さんのダサい姿が見たいので、あまり読むことはおすすめしない。

2.人生の赤字経営

まず、人間が基本的にお金を使うのは、生活の基本である「衣食住」である。これらは生きる上では土台となる物なので、たぶん、多くの人間がこれらに多くのお金を費やしていると思う。中にはそれが原因で苦しんでいる人さえいる。つまり、「収入より支出が多く」なってしまい、その結果破産してしまう。赤字が続き、家を追い出され、人生破綻してしまっているのだ。

生計を立てる方法だが、一般的には就職し、そこから得られる収入で、生活費を賄っている。しかしながら、生活費以外で掛かってしまうコスト(ストレス発散費、医療費など)に多額の費用がかかってしまっている。


仕事するにもお金がかかるのだ。


これでは、好きなことに使えるお金はほぼ残っていないだろう。日本人は生活するのに精一杯なのだ。逆に言えば、余計なことにお金を使い過ぎだ。


3.着る服がなくても死ぬことはない。

実際、私はファッションにはあまり興味がない。最近の私の考えでは、服は「着られれば何でもいい」と思ってきている。もしくは、「どうせ着るのならそれなりにお金はかけてもいい」と思っているだけだ。その結果、たまたま着れる服が多くなってしまい、それをうまく組み合わせているだけなのである。

こんな感じで、私はこの衣食住の中で1番必要のない「衣」にお金をかけているわけだが、なぜそのような余裕があるのか。それは、「お金が余っている」からだ。ここで勘違いして欲しくないのが、私の収入は「平均より低い」というところ。ファッション依存症でもない。「余っているお金をただ使っているだけ」。貯金はするのではなく、勝手に貯まる。


私が思うに、「いいお金の使い方」とは余っているお金(手持ちのお金)をいかに上手く使うのかがカギとなっている。


なので、余っているお金を使っているから、現状況においての私は、ファッションの出費が痛くない。つまり、お金がなくても死なない環境にいるので、今の内に満足するまで使ってしまおうというわけだ。「痛み」を感じない時に使ってしまおう。

お金の痛みとは、歳を重ねれば感じてくると思う。歳を取ればお金がかかってくる。小学生の頃、自動販売機の下にある10円玉を拾っただけで喜んでいたが、今この10円を拾っても嬉しくはない。そういうことだ。

勿体ぶらず自由に使える内に使え。


「服がダサくても、着るものがなくても人は死なない」


4.ファッションは見栄を張ることではない。

ではなぜ、余裕のない人がついついファッションに費やしてしまうのか。それは「見栄を張る」ためである。(※一部を除く)。どういう人がこれに当てはまるのか、詳しく説明していく。

服を選ぶ「基準」が「ブランド」や「流行」である人はこれに当てはまる。ただの見栄っ張りってわけだ。こういう民族がよく言われる言葉に、「服に着られている」という表現がある。

一部を除いた人たちは、本当の服好きか、ただただ裕福な人たち。本当の服好きとはどういう人たちなのか。それは、服を選ぶ際、「自分の生き方」や「思想」を反映させているのであればそれは本当の服好きだ。もっと言うと、彼らはブランドの歴史や背景、服の作り、デザイン、形、生地や技術を買っているわけである。そして、それがスタンスに沿っている。

受動的にではなく、能動的に買っている。

(因みに私はファッションは自由だと思っているので、基本的には口出しはしない)

5.所有とはただの消費

ただ「所有」したいという意欲はただの「消費」になりかねない。つまり、選ぶ基準でその服が「資産」であるか、ただの「消耗品」であるのかが決まってしまう。

これだと、「投資」ではなくただの「消費」になってしまう。投資というのは、お金を掛けた分、見返りがあるもので、消費とは「ただお金を使っているだけで何も得られない」ことである。

ただ、プロフェッショナルとまでなると、何も考えなくても選べてしまうというテクニカルなことができてしまう。私はプロフェッショナルではないが、殆どの服を「直感」で選んでいる。が、ちゃんと自分の生き方や感性に一致している。(絵を買う様な感覚)。


「服が自分に合わせてくれている」様な感覚だ。


これは才能だと思っている。だかしかし、最近は「所有するということ」に、意味合いを感じなくなってしまったのだ。というより、必要がなくなった。(筋肉が1番のファッション的な)


なぜなら、「私はわざわざ着飾らなくても、お洒落であるから」


1度お洒落と思われてしまえば、やがてそのイメージが定着し雰囲気となる。


6.着飾らずに素の自分を出す

今まで着こなしてきた、服が皮膚となり、血となり、身体の一部となった。つまり、「心を着飾る」という能力を習得できたのだ。無敵だ。ただ歩いているだけで、ファッションショーが始まってしまうのだから。


まさに、「人生はランウェイである」...



だから、私は衣食住の「衣」を制覇したのだ。余っていたお金をファッションに費やしてきたが、それすらも必要なくなってしまう。

そして、ゆっくりと私の浅いファッション人生の幕が閉じようとしている。あまり深入りすることはなかったが。

7.生活コストを減らすこととは生活の質を上げるということ。

衣は着られれば何でもいいし、食は食べられれば何でもいいし、住は寝られればどこでもいい。ということは、「生活コストがほぼゼロ」に近づくわけである。


「生活水準は上げるのは簡単だが、下げるのは難しい」


高級タワーマンションに住んでいる人が急に、山奥の小屋で住めと言われたら、それはとても厳しいと思う。消費癖は定着したままであるので、今までの生活からなかなか抜け出すことができない。

これが、お金が原因で苦しんでいる人たちなのだ。本来、必要のないものに無闇矢鱈に消費してしまっている。それも、見栄張りなんかのために。

あとがき

少しでも、自らハードルを低くし、イージーモードを選択することで、幸福が見えてくるのではないのか。(人によるが)。生活の質も上がりやすい。コストをゼロにするということは、この生活の質を上げやすくするためにある。

つまり、「QOLを向上させること」が今の時代に沿っているのではないかと思う。

















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