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15歳の決断



こんばんは。

今回は、15歳の頃の話。



高校の進路を決めるってどんな気持ちだったかな~
なんで地元を離れたんだっけ?
って思い返してたら浮かんだので、今日は書きながら思い出していこうかなと思います。


結果として飯田市を離れ、塩尻市へ。
そして寮生活を選択したきっかけを。


全部自分でやる


中学2年になったばっかりの頃
母が家をでた。
もう今更隠してるわけでもないので言っちゃう。時効ってことで


それからというもの、家事は全般やらなきゃいけなくなった。
そりゃそうだ。お父さんは仕事。お姉ちゃんはもう家を出ていたし
残されたのは、自分と妹。

妹はまだ小学生だったからおじいちゃんの家に行ってた気がする。
だから家に残されたのは自分だけ。


洗濯物、掃除、いままでやってもらっていたことを自分でやらなきゃいけなくなってしまった。14歳の夏。
14歳って言ってもまだまだ子供。だからこんな自分でさえ
保健室登校をしてた時期があった。(笑)
今思い出すと笑えるけど、1週間くらい。
ストレスかわからないけど、頭痛が収まらなくて
まともに授業も受けられない1週間だった。

たしか、テストもほとんど解けずに気持ち悪すぎて保健室に行った記憶があるから、追い込まれてたんだろうなと今だから思う。

その時支えてくれたのが、担任のMr斎藤先生。
英語の担任だからMr斎藤。
こんな自分を親身に助けてくれた。
だからこんな先生になれたらいいなと、大学で教員免許を目指した。
(結局、大学2年の時に先生になりたい訳じゃないと気付いて教員免許を取るのをやめてしまった。)


そんな時期を何とか乗り越えながら、家のことも
サッカーの遠征の準備も自分で荷造りする。
全部自分でやらなきゃいけなかった。

送迎をお願いするときは、お父さんに前もって伝えておかないと
お父さんは送迎してくれなかった。
いままでは何もしなくてお母さんが乗せていってくれて
練習場所について、当たり前に迎えに来てくれたけど
それが当たり前じゃないんだと気付いて感謝できるようになったのもこの時。

幸い、おじいちゃんの家が近かったので夕飯はおじいちゃんの家で食べて
それからサッカーの練習に行く日々が始まった。

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練習前に


そんなことがあって、
練習に送って行ってもらうのが難しくなった。

いや、正確にはおじさんに頼んで送ってもらうのが申し訳なかった。
お父さんも仕事が忙しそうで、今みたいに仲良くなかったし、頼めなくて。
だからエナメルバックを背負って、走って練習会場にいくって決めた。

平日のナイター練習は週に3回。
うち1回はどうしても遠すぎて練習にも間に合わなかったので送迎を頼んで
あとは走って練習に。


もちろん環境の問題もあったんですけど、この時自分が考えたのが
フィジカル面の強化。と、メンタル面の強化。
フィジカルは走ってるからもちろんなんですが、
メンタルは何かっていうと

『みんなより練習前に疲れているから、この状態の俺に勝てないならフルの状態の俺には絶対勝てないだろ!!』

これです。ええ。

この自信です。世間一般では勘違いといいます。

それでも本気でそう思って卒業する3年までやってました。

(走っているところコーチに見られたらアピールにもなるじゃんラッキー)
とも思っていました。(笑)


これが功を奏したのか、体力だけはめちゃくちゃありました。ホントに
誰よりも走れる選手だったと思います。下手だったけど。




温度差


自分が生まれ育った飯田市は
みんな優しくて、本当に優しくて。
もちろんチームメイトもみんな優しい奴らで。
きっと地域柄だと思うけど、我が強い選手は少なかった。
(今、指導者として子供と関わるけどやっぱりこの地域の子は、ほかの地域に比べそういう我が強い子は少ないなと感じる。)


でも、15歳の自分にはそれがとってもぬるく感じていて。


なにが。とかなんでっていう明確なコトは15歳の頃ほど鮮明ではないからうまく表現できないけど、とにかくイラついていたことを覚えている。自分自身にも、チームメイトにも
もっと厳しくやれよ!とか、なんでもっとやらないの?とか
そんなことばっかり思っていた。


試合中も、敵じゃなくて味方に切れてばっかりの選手だった。
もっとボール出せよ!みたいな。
エゴの塊だった。


久しぶりに会った中学の友達には、丸くなったねってよく言われた。
そんなに尖ってたかな?って思うけど
色んな人に言われるってことはやっぱそうだったのかなと思う。


これには理由があった。

一つは、負けたくなかった。
どんな試合でも負けたくなかった。負けず嫌いすぎて
勝つことだけしか考えてなかった。ただ単に、それだけ。

もう一つは、

普通にサッカーしてるみんなが、少し前の自分と同じだったから。
当たり前に迎えが来て、当たり前に準備された荷物をもって、
それに感謝もしてない。当たり前の環境だと思っていること。


それが羨ましくも、憎らしくもあった。

それは自分の問題だからみんなが悪い訳じゃない、わかっていたけど
まだ子供の自分はイライラしていたんだと思う。
でも今思えばそんなものはただの妬みでしかないのに。


そんな生活が続くと、人間慣れてきて。
家事も当たり前にできるようになるとこう思った。

別に寮生活でも、きっと自分の事をやらなきゃいけないのは
いまの環境となんも変わらないな。だったらどこか寮でもいいな。


反抗期になる前に、反抗できるタイミングを失って
ずーっと生きてきたから、家を出ていくことが自分にとってのちょっとした親への反抗みたいなものだったのかもしれない。




不純すぎる動機



中2の頃だった


近所の長姫高校のグラウンドに、都市大塩尻高校が来て
トレーニングマッチをするっていう情報をどこからか聞きつけ、見に行ったことがきっかけで、自分は私立高校を強く意識するようになる。



そこには後々、いじめられることになるキャプテン(笑)や、誠也先輩、拳斗先輩といった、アザリーの1期生の先輩がいた。
アップから半端じゃない雰囲気を感じたのを覚えている。
都市大は1年生だけで来ていたけど、(自分の2個上)
試合を支配し、勝ったのも都市大だった気がする。
地元の高校じゃない選択肢が自分の中で芽生えていた


その日から自分の頭にあったのは、私立高校へ入ること。
そうすればあんなかっこいい集団に加わることができる。
(あと受験勉強しなくていい)
って中2ながらに強く決心したことを覚えている。


そこから、本当に自分の意識が変わった。
とにかく目立つ。推薦をもらうためにはそれしかないと。
点を取りまくって、県トレに呼ばれると。
そうすれば、受験というものから逃れられる。と(笑)


それこそが苛立ちというか、焦りの理由。
そこだけを目指してサッカーしていた。


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評価


練習前のランニングをはじめてからというもの
こんだけやってんだからお前らには負けない。
そんな気持ちで毎回の練習はバチバチ。

同年代に関しては南信地域じゃもう敵はいないと。自信満々。


でもなかなか選ばれませんでした。県選抜。

まあそもそも技術面は本当にダメダメだったし、
上沼コーチには最後まで、お前がチームで一番下手だって言われていました。だからそこは分かったうえで、

俺より点とれるやついないでしょ?

って思っていました。うぬぼれって怖いですよね。
まあ、結果も出していたので本当勘違いしていました。


だけど選抜に選ばれない。それが自分の評価でした。
セレクションに呼ばれていったけど落ちたし。
もう途中からは自分には選抜なんてものは無縁のモノと思ってサッカーしてました。



クラブユース県選抜


これが大きな転機でした。
中体連の選手抜きの、クラブチームの選手のみで形成される県選抜。

そこで選んでもらうことができたんです。


ここで、県内の色々なうまい選手と知り合い、一緒にプレーするわけですが、本当に楽しかった。
自分の技術のなさを痛感したと同時に、うまい選手とプレーをすることの楽しさを、サッカーの新しい楽しいに触れた瞬間でした。
遠征は、茨城、静岡と行きましたが、全部の試合が刺激でしかなくて
県内のクラブで主力を張ってる選手とここで交流ができたわけです。

またみんなとサッカーしたいな~。


両足でCKを同じ精度で蹴っちゃうミズキとか。
ポスト、裏抜け、ヘディング、なんでもできちゃうオグチとか。
中学生なのに190近くあって誰にも負けないノブオとか。
ちっちゃいのに足元スキル鬼のリョウガとか。


当時の自分にはすべてが新鮮でした。
この経験が、自分が地元を離れる背中を押すことになります。


今だから思いますが、こういった遠征だってすごく貴重でした。
知らない奴らとチームになって試合する。これだけで輪も広がるし、世界も広がる。こういう機会を子供たちには大切にするべきだと、伝えていきたいです。



高校の選択


中学3年になり、クラブユースが終わったあたりで、推薦などの話が動き出しました。もちろん自分も考える時期です。


アザリーのほとんどが風越高校にいくということでした。
6~7人くらいかな。ほぼアザリーじゃないかと。(笑)

このままサッカーを成熟させるのも可能性としては考えたけど、
選抜で受けた刺激と、ずっと感じてきた温度差から
私立高校に進むことを決めていました。

もっと上を目指したくなったからです。


幸い、都市大塩尻と、創造学園から声がかかって
お父さんと見学しに行った結果。創造学園にしようとしました。

創造には一個上の宮下周歩くんがいて。ずっと追いかけてきた選手で
またやりたいなと思っていました。

それから同じ南信のM.A.C SALTOにいて、仲の良かった
卓海に声をかけていたので一緒に創造でサッカーできると思っていました。
卓海はクレバーで、自分が苦手とするセンターバックでした。
だから一緒のチームでやれたら最高だなと。高校では卓海と同じ
チームでやりたいと思ってずっと考えていました。

でもここでお父さんと先生ブロックが入ります。(笑)

詳細は言えませんが、学力含め総合的なこと、それからユニフォームが
赤でかっこよかったので都市大塩尻に行くことに決めたのでした。
(鹿島アントラーズと同じ、ナイキの赤。惹かれない訳ないです。)


結果、卓海も創造をやめ、東海大三へ進みます

三年後、また同じように一緒の大学にいってサッカーしようと誘い準決勝で戦うことになるなんてこの時は思ってもいませんでした。

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最後に



それぞれ目指すものが変わってくる、ジュニアユースの年代ではどうしても温度差って生まれてしまうものなのかなと思います。
これがユース年代になれば、インターハイで引退する選手も出てくるし大学進学を一番に考える選手もでてきてしまう。だからこそジュニア、ジュニアユース年代はサッカーだけに集中して、やってほしいと思います。


大人になれば、全員が同じ方向を向いてサッカーすることはほぼないです。
仕事、家庭、色々なものを背負わなければいけないから。



自分がみんなに甘えてサッカーしてきたんだと気付くのは、
20歳になって、成人して、再び大人になって話したときです。
いや、気付いたのは高校の時。
ちゃんとみんなと話せたのは20歳になってから。
自分のわがままを受け止めてくれる大きなキャプテンや、チームメイトがいたから、自分はサッカーを好きにやってこれたんだと
だから毎年みんなで集まって、みんなで楽しく飲めるようになって。
当時のことを謝ったけど、それすらみんな受け止めてくれるから
ホントにいいチームメイトだなと、一生の仲間だと思ってます。


だから年1回はみんなで年末に笑って、1年を締めくくる。
それが今の楽しみです。

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若い時のぶつかり合いも、大人になれば笑い話になる時がくる。

だから頑張ってサッカーを極めてください。

ほかの事はいつだってできます。


**みんなで同じ方向を向いてサッカーするってことは
実はすごく貴重な時間だってことを意識して。

気付いた時にはもう戻ってこない時間だからです。**

今は世界各地で、自粛が広がり対外試合どころか練習ができない日々が続いて、きっとモチベーションを失っている選手も多いでしょう。

だからこそ。自分としっかり向き合って、サッカーをできる喜びを。

サッカーが出来ることが当たり前じゃないことを感じて、自主トレに励んでほしいと思います。


いつ、みんなとサッカーが出来てもいいように。
その時自分が最高の状態でいられるように。

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