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萌芽


あの疼きが忘れられない。

死と隣り合わせの日常を、それでも人は遠くへ向かって生きている。明日を約束する切符さえ、誰にも手渡されてはいないのに。
死を自覚したその瞬間から、僕たちはふっとそれに目を背ける。

   

もう何十年も前の話だ。

小学2年のある夏の日、S君は学校を休んだ。

S君はクラスのなかでもぼくの大の仲良しだった。ほかの子よりも大柄で、ちょっとやんちゃで気が強かったけれど、とにかく活発で明るい男の子だった。外で遊ぶのが大好きで、いつも絵ばかり描いているぼくと、なぜ仲良くなったのかはわからない。1年生のときからクラスが一緒で、これまで彼が休んだことは一度もなかった。だからぼくはちょっと驚いた。

「S君は今日お休みです。おうちには電話しないように……。」

先生は淡々として、多くを語らなかった。

しかしS君は翌日も休んだ。そして次の日も、その次の日も……。教室の窓際には、誰も座っていない椅子と机がポツンとあった。窓の外では陽に照らされた新緑が風に揺れていた。

   

それから一週間ほど経ってからだったろうか。先生はクラスのみんなに告げた。

「実はS君のお父さんがお亡くなりになりました。お葬式に男の子と女の子一人ずつ、クラスの代表で行ってもらいます。」

男の子の代表としてぼくが行くことになった。S君のお父さんの事はあまり知らない。ただ「一人のヒトが死んだ」。ぼくにはそれだけの事に過ぎなかった。それよりもぼくはS君に会えることが楽しみだった。

あれは午前中だった気がする。自宅葬だったため、ぼくたちはS君の家へ向かった。隣を歩く先生を見上げたとき、その横顔のうしろに、澄みきった青空が広がっていたのを覚えている。

S君の家へ着くと、座敷にたくさんの参列者が座っていた。ぼくたちも広間の奥のほうで膝をただした。

S君は参列者の向かいで正座していた。久しぶりに彼を見てぼくは嬉しかった。

だがそこにいた少年は、いつものS君とはあきらかに違っていた。背筋をしゃんと伸ばし、じっとしたまま身動きもせず、口をきっとむすんで、眼は真っすぐにどこか一点を見つめていた。S君がこっちへ気づいてくれないかと、彼のほうにぼくは視線をおくった。しかし彼はずっと何かを見つめていて、こっちに気づく様子はなかった。

それでもどうにかS君にぼくは気づいてほしくて、彼のほうを見ながら心のなかで合図をおくり続けた。しばらくすると、ちらっと彼の目線がぼくのほうへ向けられた。

「久しぶりだね!」ぼくはあいさつ代わりにほほえんだ。けれどS君はなにも応えることなく、すぐに目線をもとへ戻してしまった。そしてただ真っすぐな眼差しを一点に向けていた。

   

誰から聞いたのか、不意に耳にしたのか、それが未だに思い出せない。

その朝S君のお父さんを、家族の誰かが起こしに行ったらしい。布団をめくると、お父さんは冷たくなっていたという。

床のなかで心臓が止まっていたと聞いたので、いま考えると心筋梗塞か致死性の不整脈だったのかもしれない。ほとんど面識はなかったが、彼のお父さんは威勢がよく逞しい人、という印象をぼくは持っていた。だから人が突然死ぬこともあるという事を聞いて、ほんとうに怖く感じた。

その夜、両親や自分が突然死んでしまったりしないか、ぼくはひどく心配になっていた。父や母と自分が、別々の世界に引き離されてしまうことに怯えた。

今いる世界と断絶されたまったく別の世界。得体のしれない未知の存在が、ものすごい勢いで重くのしかかってきた。

ベッドに入ってからも、ぼくは天井の幾何学模様をずっと見つめていた。母が様子を見にきたときには、「お母さん死んだりしないよね。ぼくも死んだりしないよね。」と何度も聞いた。母は安心するよう優しく言葉をかけたあと、灯りを消して部屋を出て行った。

眼を閉じたら最期、もうこの世界にぼくはいないかもしれない......。

   

翌朝目を覚ますと、薄明かりのなかにぼんやり天井の幾何学模様が見えた。僕はベッドから飛び起きると、カーテンを思い切りあけた。眩しい朝陽を浴びた家々の屋根が見えた。それから本棚や机、時計、部屋じゅうの色々なものが、変わらずそこにあることを確かめた。部屋のドアをあけると、1階のキッチンからいつものように水道水の流れる音や、食器の重なりあう音がきこえた。

僕は心から安堵した。そしていま生きていることの嬉しさをかみしめた。そのとき僕の日常は鮮やかに彩られていた。あたり前のように存在している、周りのあらゆるものが輝きに満ちていた。家族や自分がいずれ死ぬなんて、到底受け入れられなかった……。

   

しかし今ふりかえると思うのだ。
あのときたしかに僕は見ていた。
——透きとおった空に鋭く走るしずかな亀裂を。



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