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静かな宣告 DIC川村記念美術館『ロスコ・ルーム』


DIC川村記念美術館 『ロスコ・ルーム』

変形七角形の部屋には仄かな光源に照らされた巨大な赤褐色の絵画が、それぞれの壁に1点ずつ展示されている。鑑賞者は静まり返った展示室のなかで、未来の墓碑のような絵画にぐるりと取り囲まれることになるのだ。

DIC川村記念美術館にある通称『ロスコルーム』。抽象表現主義の代表的な画家マーク・ロスコの作品だけを展示した、世界に4箇所のみ存在する空間の1つが千葉の佐倉市にある。
 
『ロスコルーム』にある全7点の《シーグラム壁画》はいずれもひどく陰鬱で沈んでおり、そこには混沌とした精神世界が渦巻いているのを感じずにはいられない。1950年代後半以降のロスコの作品は、なだれ落ちるように暗い色彩へと傾斜していった。
 
この記事ではロスコのもっとも重要な作画期といわれている最期の約10年間で、ロスコが何を表現しようとしたのか、彼の生涯や思想、《シーグラム壁画》を検証することでその核心に迫ってみたい。

《Black On Maroon》 1958


マーク・ロスコの生涯

マーク・ロスコ(本名:マーカス・ロコヴィッチ)は1903年、ロシア領ラトビアのドヴィンスクにユダヤ系の両親のもと生まれた。1913年にアメリカへ移住し、20歳の頃に画家になることを志す。
 
イエール大学を中退したロスコは、ニューヨークに移り美術大学に入学。さらにアート・スチューデンツ・リーグでマックス・ウェーバーのもと人物画、静物画を学んだ。ここでのウェーバーの教えにより、ロスコは絵画を宗教的、感情的な表現の手段ととらえるようになった。
 
その後ニューヨークではジャクソン・ポロックやデ・クーニングなどの前衛アーティストたちと交流を深め、グループ展に出品したり、個展を開いたりするなどロスコは活発に創作活動を展開していく。
 
そして1949年、画面に少数の矩形を配した、いわゆるロスコ様式を確立する。50年代初頭には『15人のアメリカ人』展でロスコが紹介されたことをきっかけに、ロスコは次第にその名声を高め人気を博していった。画家として大きな成功を収めたロスコであったが、高まっていく富や名声と反比例するかのように、彼は自己嫌悪に陥っていったという。 
 
1970年、自殺により死去。
 
美術史においてロスコは抽象表現主義の代表的な画家の一人として、またカラーフィールド・ペインティング(巨大なキャンバスを用いて全体の色数をおさえ、大きな色面で描かれる精神性の高い絵画)の先駆者とみなされている。


ユダヤ人としてのロスコとニューヨーク派の死

ロシアではユダヤ人に対する迫害があり、ロスコは幼少期より差別的な環境のもと恐怖とともに幼少期をすごしたといわれる。
 
そしてユダヤ人に対する殺戮や破壊などの集団的迫害行為が激化したこと、また自分の息子が兵役に召集されることを父が恐れていたことから、1913年に彼は家族とともにアメリカへ移住することとなる。しかしその1年後、ロスコ10歳のときに父は結腸癌でこの世を去った。
 
1938年にはヨーロッパで猛威をふるうナチスの影響がアメリカにも及び、国外追放されるかもしれないという恐怖から、アメリカ国籍を得る。そして1940年には名前を「Markus Rothkowitz」から「Mark Rothko」に改名したのである。
 
迫害や戦争による不安にさらされながらロスコが作品を創作していたという状況は、彼の作品を検証するうえで看過できないことだろう。
 
またロスコはアメリカ前衛集団「ニューヨーク派」の創立メンバーの一人であった。しかしニューヨーク派のゴーキーは44歳で自殺し、ポロックも44歳で事故死、デヴィッド・スミスも59歳で事故死している。
 
こうしたことを考えると、ロスコにとって死は想像以上に身近なものであったのではないだろうか。


ロスコの思想

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

ロスコは極めて知性的な画家であった。4か国語を話し、哲学や宗教、文学や音楽に造詣が深かったといわれる。特にロスコの思想はニーチェやキルケゴールなどの実存主義に基づいている。
 
なかでもニーチェの『悲劇の誕生』に影響を受けていたことはロスコ作品を理解するために欠かすことができないだろう。『悲劇の誕生』でニーチェは、アポロ的な芸術とディオニュソス的な芸術が融合することによりギリシア悲劇が誕生したと述べ、両者の性質を併せ持った悲劇こそ芸術の最高形態だと語っている。
 
ロスコの有名な言葉である、「私は悲劇・陶酔・破滅などといったとりわけ人間の根源的な感情を表現することだけに関心がある」という芸術観がニーチェの影響から生まれたことはいうまでもない。
 
そしてここでいう「悲劇」とは人間が悲劇的な運命にあること、すなわち例外なく人間は死にいたる存在である、ということだ。死への存在としての宿命を直視させる「悲劇」が現代には欠けているとロスコは考えていた。


《シーグラム壁画》についての考察

無題《シーグラム壁画》 1958


無題《シーグラム壁画》 1958


1958年、ロスコはニューヨークのシーグラム・ビルの高級レストラン「フォー・シーズンズ」の内装を依頼される。自身の作品のみが飾られる空間を切望していたロスコにとって、このオーダーは夢を叶えられる絶好の機会であったに違いない。
 
約2年の歳月を費やして《シーグラム壁画》を完成させたロスコであったが、結局この作品が「フォー・シーズンズ」に飾られることはなかった。ロスコはその空間が自身の作品を飾るにふさわしくないと判断し、一方的に契約を破棄してしまったからである。
 
《シーグラム壁画》は現在、ロンドンのテート・モダン、ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アート、そして千葉県のDIC川村記念美術館の3箇所に収蔵されている。
 
これらの作品群はミケランジェロの設計したフィレンツェにある、ラウレンツィアーナ図書館の壁の窓型装飾に強い影響を受けた。
 
作品はいずれも巨大で、中には幅4.56m、高さ2.67mに及ぶものもある。ロスコ様式の特徴である画面いっぱいの矩形は消滅し、その代わり多くの作品には大きな窓のような枠が描かれている。しかも横長のカンヴァスのものが多い。そのため見る者に巨大な窓のイメージを与えるとともに、その向こうに得体の知れない世界の存在を想起させる。
 
この巨大な窓は境界線のように屹立し閉ざされているように見えるが、かえってそれが見る者の想像力を喚起して止まない。そして、これらの作品群が示唆している世界とは、現世ではない死の世界にほかならない。
 
またこれらの作品群はいずれもじっとりと暗い赤あるいは褐色で何度も塗り込まれており、その色は凝固した血液、つまり死のイメージと重なる。視覚を通じて血のイメージは自分の体内に流れるそれと呼応し、見る者がやがてはおとずれる悲劇的な自己の運命を否応なしに突きつけられるのである。
 
《シーグラム壁画》の空間内の照明はかなり抑制され、おぼろげな光のなかに作品は佇んでいる。照明が明るすぎると色面に置かれた枠の、漂うような浮遊感が消失してしまうからだ。この浮遊感は先にも記したロスコ様式の特徴で、この朦朧とした感覚が見る者を現実世界から解放し、深い精神世界へと導く作用をもたらしている。


ロスコ作品の核心

ロスコ・チャペル(テキサス・ヒューストン)内部 

「死に対する明瞭な関心がなければならない」とロスコは創作する際の絶対条件として挙げている。すなわちロスコの絵画と対峙するということは、死と対峙するということに他ならない。
 
だからこそ鑑賞者はロスコの絵画の前にした瞬間、畏怖や不安といった心の揺れを抱くのであろう。しかし画面を通じて自己と向き合ううちに悲劇的運命に人間は抗えない存在であることを自覚し、それを受容することで絶望を超越する。そうしてついには絵画の深奥にたどり着くことで、そこに広がる限りなく崇高で静謐な世界へと沈んでいくのだ。
 
無限に多層的な死の表象——あるいは死にたいする人間の感情の表象——それこそが成熟の極みに達した1950年代後半以降のロスコ作品の核心であり、彼の作品が祈りの絵画といわれるゆえんなのではないだろうか。

最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました!