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さいしょに

 こんばんは、人に見える形で、初めて言葉を書きます。

 文章を綴るということは、今まで一人の中ではしてきたのですが、公の場においてすることは初めてでありまして、つまる所、大衆の方々には受けいれられないものも、私は綴ることになると思います。

 それに対して、誰かが不快な思いをしてしまったら私は申し訳ないと思います。ですが、それに対して謝罪する気はございません。あなたの文章を見るという権利を持って、有象無象の中での、価値がありあまる人間の文章として、自己の中で完結できるものとして読んでいただければ幸いであると思います。

 自己語りをするのが、このnoteでの役割だと思うので、今回は文章に綴るということついて書きたいと思います。

 人の内側の感性を揺さぶることができるものが、芸術であり、文章を綴るということも、BADASAIKUSHが言うように、芸術であると思うのです。
 社会にもまれて生きることが嫌だ、と言う人間が数えきれないぐらいいる世の中で、しかしみんなその社会の中で適合して生きて、そして社会に合わない思考をする人をみんなで後ろ指で攻撃する。
 その社会の中でも、社会には到底認められないような思考を文章として綴る人がいて、しかしながら、それは大衆に認められる。普通に考えれば社会に認められないはずのものが書店ではベストセラーとして、社会に認められる価値を与えられる。

 それは一見筋の通っていないもの。しかし、それが大衆に認められるということは、大衆として生きる方々の深層心理を表しているようで、好きなのです。
 論理や常識を越えて人の内なる感性を揺さぶるのことができるのが芸術のもつ価値であり、文章も同様にそれを持つと思います。

 人の思考は受け入れられない、というのが常日頃生きている中での現実だと思います。物事の本質を見て、それに対してたくさんの思考をして、それを浮世にアウトプットできる形で出したとしても、ほとんどの人は何を言ってるのか分かることができない。だって、普通以上のことを考えてきたのですから、普通の中で生きてきた人には、普通のという自分の中の揺るぎない(揺るぎないと思っている)ことを超えたことを言ったって、分かるわけがない。

 分かるわけがないのに、受け入れられる。それが芸術。受け入れられたら、分かり合えないはずの人たちと分かり合えるかもしれない。

 だから私は芸術をしたいし、文章を綴りたいと思うのです。

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