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脚が動かないだけで。

三日くらい前から、左膝に鈍い痛みがあった。

ストレッチをしたり患部を冷やしたりしてお茶を濁していたのだが、昨日の夕方になって鈍痛が激痛に変わり、歩くのもままならなくなったので、さっき整形外科を受診してきた。

年配の医師は原因を探ることもなく、簡単な触診とX線撮影、採血をして、「ひどい炎症を起こして腫れているから安静に」と対症療法だけを施してくれた。

最近は歯科医でも整形外科医でも精神科医でも、丁寧な聞き取りから症状の原因をつきつめて、生活習慣や考え方などの根本から正そうという姿勢の医師が多いなか、あまりにも淡々と簡潔に終わってしまったので拍子抜けした。

けれど、なんでもかんでも手取り足取り世話を焼いてくれる我が国の過剰なまでのサービスは世界的にも恵まれた環境だとは思うものの、淡々と対症療法のみを施す医者というのも、すっきりさっぱりしていて潔いと言えなくもない。因果の及ばないところで世界は動いている、と老子が言っていなかったっけ?

僕の場合、これといって特定できる外的要因がないので、「四十膝」とか「大人のオスグッド」とかいろいろ推察はできるのだけれど、ひとつはっきりしているのは、様々な生活習慣が統合的に偏った結果であるということだ。

毎日デスクのリクライニングチェアにだらしなく腰掛けてパソコンをいじり、壁掛けのディスプレイを眺めるためにふんぞり返り、ソファやクッションだらけの西洋式ベッドによりかかって骨盤を縮こまらせて、背骨やら腰骨やら体幹のあらゆる関節が偏っていて、さらに日常的な運動をしないくせに、ときおり唐突にサーフィンやら登山やら強度の高い運動を挟むので、筋肉がついていかないのだろう。暴飲暴食気味の食生活も関係しているかもしれない。

明日からの予定だったキャンプが延期になったのは残念だが、「いずれこういうときがくると思ってたさ」という諦念があるのも事実である。「そろそろ生活のあれこれを整えていきまっしょい」というフェーズが訪れたのだと自分では思っている。

さてそんなことより、僕の場合は特に重傷ではないにしても、〈膝の痛みによって歩行がままならない〉という事実が、ここまで自由を奪うものであるかと、しばらく放心してしまった。

井上雄彦の『リアル』という漫画に、両足を失ったことで仲間も将来も希望も失ってしまうバスケ選手が出てくるが、彼の絶望と痛みの100分の1くらいは僕にも理解できたかもしれない。

エアコンをつけたくても、水を飲みたくても、トイレに行きたくても、書斎に入りたくても、猫を撫でたくても、すべてが億劫で、すべてが憂鬱に感じられてしまう。

整形外科の待合室で、ゆっくりゆっくり地面を踏みしめて歩いていたおばあちゃんを、今までならなんとも思わなかっただろうけど、今日はなんだか自分のように感じられて、いたたまれなくなった。

人はこうして、ひとつひとつ諦めて、あるいは諦めきれずに足掻いて生きていくだろう……などと感傷的なことを思ってしまうくらいには、気持ちも下がる。

のらりくらり生きている僕ですら、ちょっと脚が動かないだけでため息がちになるのだから、世の中には日常的な痛みと共にありながら、前を向いて強く生きている人がたくさんいるのだなあと、あらためて若輩は己の無知を実感し頭を垂れるのでありました。


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