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「休める」という手段

休んだ時、親含めてまわりにとやかく言われることはとても嫌ではあったが、結局休んだ。
昼間家にいることに背徳感もあったが、それでも休んだ。
学校を休んだ日はゲーム禁止であったが、やっぱり休んだ。

休んだ時に感じるペナルティについては前回の記事でも書いた。
そのペナルティ覚悟で反則を取りに行くのは、とにかく逃げたかったからだろう。しかし結果として、気力の充電ができていたように思う。
いや、それよりも「休める」という最後の手段を持っていること自体が、安心だったのかもしれない。

思えば学校には、追い詰められる要因がいくつもあった。
宿題はだんたん難しくなっていくし、授業も委員会も、要求は強くなっていく。先生は普通に体罰だし、いじめっ子の蹴りは痛かった。
なかなか「明日学校行きたい」にはならない環境。やっぱり「明日学校行きたくない」になる。
そんな時、学校を休める道があることは、まだ心に余裕を持たせてくれる。
確かに休んだ時のデメリットは大きい。それでも「休めない」よりはマシだった。
逆に自分の状況が「休めない」だったらどうなってしまったのか?
想像するだけでたちまち閉塞感に襲われるのは、休める選択肢が残されていることの安心感の表れのようだ。
実際、休んではいたが学校には行っていた。休むより行くことの方が多かった。それは休めることの安心感がストレスを軽減したのか、休んだ時に回復できたのか。いずれにしても休憩は必要そうだ。実は休めた方が、むしろ学校へ行けるのかもしれない。

一時期、小学校に有休制度をという声が上がったことがある。この運動がその後どうなったかわからないが、効果を測定してみたい気もする。

しかし、「休める」からと言って「休む」ということに繋がらないのも現代の難しいところだろう。
昼間家に誰もいないので休ませたくないと言った事情もあるはず。
それについては昔はどうだったのだろうか。
次回はそれについて考えてみよう。

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