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「親ガチャ」を一蹴したかった。

科学の進歩は未だ、分野を問わず目覚ましい。
最近ではmRNAをワクチンとして使えるようになり、1日中使い回しても電池が切れない携帯が発売され、地震波が到達する前に警報が鳴る緊急地震速報も登場した。

ただ、その目覚ましい科学の進歩は、しばしば不都合な方向に働くことがあるらしい。

例えば、人間が化石燃料を知ってしまったせいで地球は急速に暖かくなった。広島や長崎には一瞬にして都市一つを消し飛ばす原子爆弾が落とされた。海洋には膨大な量のプラスチックゴミが漂流している。

そして昨今、大多数の人類にとって(ある意味自明でありながら)不都合かつ衝撃的な事実が明らかにされた。

それは、「人間の能力・特質と遺伝の関係」。

学力、運動能力、想像力、器用さ、忍耐力、勤勉さ、協調性、などなど。

これら全て、その大部分が遺伝子に左右されるというのだ。ディストピアに相応しい「身も蓋も無い事実」に人々は絶望し、あるいは喜んだ。

恵まれた人はこんなことを言うらしい。

「努力すれば良いじゃないか。遺伝のせいにするなんて、逃げでしかない!」

およそ10年前までなら、美徳として正論として、大多数の人に讃えられた意見だろう。だが、その「努力が出来る」という能力すら、遺伝子に左右されてしまうという。

なんとまあ、どこまでも救いのない事実であろうか。遺伝子次第では、生まれ持ったハンデを取り戻す「努力」すら出来ないのだそうだ。

さらに重ねると、これは遺伝子だけの問題ではない。生まれた後にどの程度お金を掛けてもらえるか、すなわち「親に経済力があるかどうか」も大きな問題として横たわっている。

「そうか! ならもう、諦めるしかないな!」

と割り切れてしまえば、ここまで話題になっていない。

僕らはどうしても人間だから、常に優れていたいし、劣っている者を嘲りながら心地よく過ごしたいのだ。この気持ちは「汚い僕らの、汚いなりの尊さ」だから、簡単に捨てることは出来ないのだ。

だからこそ、どうしようもない気持ちを吐き出す道具として、「親ガチャ」という言葉が生まれたのだろう。つまり、「僕らは「親ガチャ」にて、役立たずのゴミを引き当ててしまった負け組なのだ」と言い放つことが、(自称)負け組の人間にできる精一杯の自己防衛なのである。

さて、残念ながら今の僕は「親ガチャ」という言葉を一蹴できるような理論を持ち合わせていない。さらに残念ながら、「親ガチャ」とその当たり外れは実在すると思っている。「能力≒遺伝」の残酷な図式をそのまま適用するなら、今まで「負け組」として扱われてきた殆どの人間が、「親ガチャ」或いは「遺伝子ガチャ」に負けたのだと考えられる。

ただ一点、「親ガチャ」関連の議論には、重大な要素が欠けているように見えてならない。

それは、「親ガチャ」の当たり外れを認識できるのは「親ガチャ」を引いた本人ただ1人であり、当然、他人の「親ガチャ」の当たり外れを知ることは本質的に不可能で、仮に可能だったとしても、よくよく考えてみたら「どうでもよい」ということだ。

以下に所見を述べさせて頂く。

「親ガチャ」問題の唯一の解決策は「気にしないこと」であり、もっと言えば「親ガチャ」の当たり外れに本来「意味など無い」という結論に至ること、だと考えている。

晴れた日に星空を見上げ、僕らの「圧倒的無力さ」を認識したら良いのだ。そうすれば、

「僕らが「親ガチャ」に勝ったところで、或いは負けたところで、どうにもならんな」

と健全な諦観を持つことができる。しかるのち、「今日のご飯が美味しい」とか、「友達の言うことが面白い」とか、「ポケモンで運勝ちできた」とか、「青空が綺麗だ」とか、個人的な満足を各々見つけ出すのである。

僕らは「自分以外の人間を理解する」ことなど出来ないのだから、早くその比較を諦めてしまうべきである。Aのたった一部しか理解できないままで、主観的なBのステータスを持ち出して、AとBを大小比較をすることは極めて無謀であるということだ。

「そう思えるのだって、遺伝子のおかげだ!」

などと言われたら、もう僕は口を塞ぐほかない。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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