取り残されている感。
こんにちは、リョウです。
「自分は色々な人にお世話になってきたから、大きな仕事をして恩返しをしたい」
と、母に言った。
僕なりに考えた、生きる目的、使命感を伝えてみたつもりだった。しかし、返事は予想外のものだった。
「そんな難しく考えなくて良いのに」
僕の言葉が不思議で不可解だと言わんばかりに、そっけない口調だった。
母の気持ちは理解できる。母が願っているのは、僕が絶大な社会貢献を果たすことではない。健康で、平穏で、安定した、幸福な生活を送ることだ。
口では「好きに生きればいい」と言えても、心の中では、他の子供と比べて作った理想像があって、それに出来るだけ重なっていて欲しいと願っているのだ。当然これは、親として真っ当な発想の一つだろう。
「理解できる」といっても、僕の欲しい言葉——応援してるとか、やりたいようにやって欲しいとか——を貰えなかったのは残念だった。もっとも、僕は既に母の思う理想像から随分と外れてしまっているようなので、そんな言葉は貰っても無駄なのかもしれないが。
僕が欲しいのは、生きている実感なのだ。「死にたくはないが、生きていく理由も浮かばない」という状態からの逃避或いは脱却だ。どうしようもなく厳しく苦しい人生の中で、自分ができる最も大きい仕事を、貢献を、結果を目指して、もがきたいのだ。
それに意味がなくても、理解されなくても、その生き方は譲りたくないのだ。悩んで悩んで、考えて考えて、ようやく見出した生き方なのだ。
それが叶わないのならば、僕は今すぐ墓に入りたい。
大多数の人間が通って行く「人生の幹線道路」なるものがあるとすれば、生きている実感など求め出した時点で、僕はそれを外れたのだ。そしてその脇の、一方通行が入り組む狭い路地に、迷い込んだのだ。
その路地には、道端に生えた綺麗な「花」や何処からか聞こえて来る「音楽」、あらゆるものが語りかけて来る「言葉」があって非常に愉快だが、愉快なのだが、何せ人が全くいない。少し油断すると、強力無比な孤独感によって、たちまち凍死してしまうだろう。
そう。主流から外れた僕がいるのは、迷路のような薄暗い路地なのである。
取り残されている感。
もしかしたら、自分が下を向いているだけ、なのかも知れないけれど。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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