見出し画像

暇で悪いか!

こんにちは、リョウです。

突然だが、僕は大学生だ。ご多分に漏れず「人生の夏休み」を謳歌している。今は夏休みだから、夏休み中の夏休みである。もう、暇で仕方がない。

暇だからnoteなんて始めたんだろうと言われれば、それは間違いではないが、これから忙しくなったとしてもnoteは続けていくだろうと思う。

さて、そんな僕には、「暇であること」について真剣に悩んでいた時期がある。その始まりは2年前の今頃、大学1年の夏であった。

ある友達と雑談をしていたとき。当時、バイトは特にせず、サークルにもあまり行っていなかった僕に、彼は言った。

「何かやることとかないの? 暇だったら、バイトとか始めれば?」

彼自身はサークルに3つくらい入っていて、「今日もこれから練習なんだよね」と言いながら、その顔は充実感に満ち満ちていた。
この後はもう覚えていないが、僕は「そうだね、バイトでも探そうかな」とか、適当に返事して、その会話を終えたんだと思う。

そんなことがあってから、「何かやることとかないの?」というフレーズが小さいトゲのように心のどこかに刺さって、「暇であること」に対してほんの少しだが、罪悪感を持つようになった。また、サークル、バイト、恋愛、趣味等々で充実してそうな人たちを、羨ましく(時には妬ましく)思うようにもなった。

それから夏休みが過ぎて、同じ年の秋頃。僕はタウンワークのアプリをインストールして、人生初のバイト探しを始めた。「お金が欲しかった」とかではない。とにかく「忙しくなりたかった」。

夏に刺さった小さなトゲで、僕の心は炎症を起こしていた。スケジュールが埋まっていること、課題に追われて徹夜をすること、「今日空いてる?」と聞かれたときに「ごめん、予定ある!」って言えること。こんなことに、当時は何よりも憧れていた。

結局、心の小さなトゲは抜くことが出来ず(自然に抜けることもなく)、秋が過ぎ、そのまま冬も過ぎた。

そして大学2年の春、ついにやってきた。今も続く「コロナ禍」が。
前期の始業が1ヶ月遅れ、3ヶ月もの長い長い春休みになった。

ほとんどの大学生が問答無用で暇になった。僕が秋に探して始めた念願のバイトも、自然消滅のような形で終了した。サークルも中止、始業も延期、バイトも縮小、帰省すらも憚られるご時世である。暇になるほかなかった。

そこで気がついた。今なら、暇はきっと罪ではない。僕の心にトゲを突き刺した件の彼も、きっと暇を持て余しているだろうから。
僕という人間は極めて単純だ。「僕以外の皆が暇になったこと」は、「僕が暇であること」の免罪符になった。当然この両者の間には本来、何の関係性もないのだが。

こうして思わぬ形で心のトゲは抜けた。正確には「刺さっていることが分からなくなった」のか。いずれにせよ、問題にならなくなったので、僕はそれ以上考えることをしなかった。トゲを自力で抜く方法は、不明のまま終わった。

それから約1年は「暇であること」に悩むことはなかった(ただしその間に全く別の理由で心を病み、人生初の「自殺願望」を抱くに至ったのだが、その話は別で書きたい)。

GPA(学業成績)は腹を擦るような低空飛行を演じたが、所属している農業サークルの代表になったり、生まれて初めて「恋人」なるものが出来たりして、それなりに充足感があった。3年生になってからは学業に熱が入り、毎週のプレゼンやら課題やらに全力投球した結果、史上空前の好成績を得た。

「暇であること」には悩むどころか、忘れかけてさえいた。僕はどうやら、念願叶って「忙しくなった」ようである。

しかし、その忙しさも永続的なものではなかった。僕の学科の授業は前期の1/3ほどを残して早めに終わる。最初に言った「夏休み中の夏休み」の到来である。

僕はまた暇になった。しかも今度は、サークルもバイトもそれなりに平常運転で、周囲が暇ではない。どうする、免罪符はどこに行った?

ああ、このままでは再び、心のトゲが痛み出す……

……ことは無かった。そう、僕だって、やみくもに生きている訳ではない。多少なりとも悩んで、考えて、ちょっとずつ自分を変えながらやってきた。「暇であること」には悩んでいなくても、そのトゲの抜き方の糸口は掴んでいた。


ここからは、今の僕の主張(僕なりのトゲの抜き方)である。

まず、「暇であること」は悪くない。ただただスマホを見て過ごす、漫画を読んで過ごす、夕方まで昼寝をする。これら全て、何も悪くない。それはどうしてか?

あるとき「休日は何しているの?」と聞かれたので「スマホでYouTubeとか、漫画とか見てます」と答えた僕に、こう言った人がいる。

「自分が大学生だったら、スマホばっか見てるなんて、勿体ないことしない。社会に出たら自分の時間なんて無くなるんだよ」

そうか、貴方の尺度では、スマホを見る時間は「勿体ない」というのか。では問うが、その対角に当たる「有意義な」時間とは何だ? 資格の勉強とか読書、あるいは料理みたいな、そういう「成果が残る活動」のことを指しているとすれば、反論させて貰いたい。

そもそも、「活動による成果の有無(生産性)」は気にしてみたところで無駄であろう。晴れた夜に空を見上げて欲しい。自分の活動で生み出した成果はその星空に、絶対に何の影響も及ぼさない(将来、誰かが月を盗んだりするかもしれないので、絶対とは言えないかも知れない)。要するに、自分の活動なんて、果てしなく広い宇宙からすれば「どうだっていい」のだ。

僕は「活動による生産性」が不要だと主張したい訳ではない。何かを生み出したり、自分の中に得たり、活動に生産性があるのはとても大事なことだと思う。また、「どうだっていい」といって、自暴自棄になったり、犯罪に走ったりするのは愚かだと思うし、そういう理論を展開するつもりは一切ない。

じゃあ何が言いたいのか? それは、

「自分が(ただし多くの場合、他人も)幸せかどうか」という点に、もっと着目してみたらどうか? 

ということである。そうすれば、スマホでYouTubeを見てる時間も、図書館で何かの勉強をしている時間も、それが「有意義であるかどうか」を考えなくて済む。その時間が幸せならそれだけで素晴らしいと思える。

「嫌な仕事とか勉強とか、幸せじゃなくてもやらなきゃいけないことがあるだろう!」という声が聞こえた気がするので、本題からは逸れるが、そこについても僕なりの考えを述べておく。

それは、その「嫌なこと」を続けた先に、果たして幸せがあり得るのか? を考えてみたら良いのではないかと思う。そこで「あり得ない」と思えてしまったら、その「嫌なこと」の続行は、踏みとどまったほうが良いのかもしれない。

……ともかく、ありとあらゆることに対して「でも(みんな)幸せならOKです!」と言いたい、ということだ(どこかで聞いた台詞を引用させていただいた)。

つまるところ、僕は何よりも幸せを求めるようにしたことで、僕の心に刺さっていたトゲを引っこ抜き、それと同時に、そのトゲが刺さらない程度の、心の表皮(?)の強度を手に入れたのである。

今なら、「暇で悪いか!」と叫べそうだ。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?