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石原慎太郎さんの特集を見て考えたこと

  目安:約2700文字

石原慎太郎さんが亡くなった速報を見て
「元東京都知事」
って思ったけど、よく考えたら作家でもあって
テレビ番組内で組まれた追悼特集みたいなのでは
その辺も切り取られていました

全ての特集を見たわけでもなく
ご活躍を良く存じているわけでもなく
近くで知っているわけでもなく
唯一の間接的な接点は
元都知事と都民ということなんだけど

特集を拝見していたら
少し考えるところがあったので
アウトプットです

歯に衣着せぬ過激な発言

枕詞?代名詞?
そんな感じにこの言葉は使われていて
同時に、当時の映像や
インタビューなどが流されていて
でも、過激とは感じないほど
石原氏の言葉はすんなり聞けた

なんなら共感もするし
同じような思考をもっていると
勝手に感じる部分もあって

「死後なんて虚無」と言ったり
「こどもなんて100人いれば100通り」
と言ったりするインタビューは
何か間違ったこと言ってる?
という勢いで聞いていた
こんなにハッキリ言語化されて
むしろ気持ちいいくらいだった

でもまぁ、人なんてみんな違うんだから
これを面白く思わない人もいるんだろうな
だから過激って言われるんだろうな
ということも理解できた

ハッキリ言語化できるからこそ
共感する人が発生する反面
反発する人も発生するんだろう
まあ、そりゃそうだ

多くの共感

結局より多くの共感が重なり合う部分が
いわゆる「普通」と呼ばれるもので
それはたぶんだけど
時代や環境と共に変化する

地域性とかだったり国文化だったりが
いい例じゃないか

今は多様性という言葉が浸透してきていて
ある意味混沌としはじめてきた時代のように見えるけど
それでも現状を維持したい、みたいな
人間という生き物の脳の保守的な性質上
無意識かもしれないけど
変化じみたものを無条件で除外する人は一定数いる

「物分かりの悪い大人」
「今どきの若者」

ここが崩れる日はくるのかなって
少し考えた

切り替わるところ

まだ若かった時に
「今どきの若者」と言われて
嫌だった経験を持つ
「物分かりの悪い大人」は
結構いると思っている

石原氏の発言は
自分が共感を持てるからそう思うのかもしれないけど
どちらかといえば事実というか
個人的感情を最小限に抑えてて
冷静な世の中の見え方をしているというか
そんな気がしている

個人的思考癖はあるのかもだけど
「過激」と形容されるほど
感情的ではないな、と
特集画面の少ない情報から感じていた

大人と若者を繋ぐ線があるとしたら
その重心というか中立というか
そんなところからの視点なのではと思って
で、多分だけど自分の視点も
その近くに存在してるので
共感できるのかなと思ったりした

こどもは学校で
みんなと同じようにしてたら
トラブルが抑えられること
大人の言うことを聞けば楽なこと
同調することで自分の身を守れること
などを、学ぶ

義務教育を終えた頃にはそれらを覚え
より良い環境を手に入れるために上級学校に進み
偉い人の言うことを聞いていれば
生活が保障される被雇用者へとコマをすすめる
誰も何も不思議に思わない

大人数を一度に動かせるシステム
それが社会、なのかな?

そういうところから見るとすると
結局「大人数を一度に動かせるシステム」に
・きちんと乗れるのが大人
・乗れないのがこども
なのではないかとプチ結論が出た
そこが人が切り替わるところかもしれない

だからいつの時代も
上手くシステムに乗れた後の大人と
そのシステムに乗る前の若者の間には
溝がある
けど、その変化は必ずしも必要なのだろうか

それは放置ですね

だとしたら、自分は大人ではないのかも
と思うことが度々あって
石原氏の発言にも
失礼だとは思うけど似た感じを読み取ってしまった

そういえば、ある日息子が

「それは放置ですね
よそであまりそういうこと言わない方がいいよ」

と、中学校の先生に言われたって聞いて
あぁ、これはネグレクトになるのかな?
なんて思ったことがあった

自分の考えとしては
こどもが自立(=自律)するために
自己形成につながるヒントやきっかけを
なんとなく与えるのは必要だけど

自分の考え方や価値観、生き方などを
押し付けるような教育とか
誘導しているかのような
言葉がけとか、進路アドバイスとか

まるで親の思い通りに創り上げるかの如く
干渉しすぎるのは危険だと思っていた
自分が正解だとは言い切れないから

息子には
広汎性発達障害(現在は自閉スペクトラム症)の疑い
と言う所見が出ていたから尚更で
生きづらい社会の中にわざわざ
強制的に矯正しながら導く意味が
よくわからなくて

より生きづらさを感じずに過ごせるための
居場所を探せる力と
助けを求められる力と
自分を大切にする力を
優先させるような接し方をしていたから

そんな日常を先生に話す事があったんだろう
そして、ひょっとしたら
若干言葉が足りなかったのかもしれない
それは放置ですね、と返されたという

「勉強しなさい」
「宿題はやったのか」
「いいからいう事聞きなさい」
の類いはたぶん言ったことがなかったし
自分から興味を示したものは
だいたい一緒に乗っかって楽しんだ
親ひとり、子ひとりだったからこそ
できたことなのかもだけど

確かにシステムに乗せるための日常は
送ってなかったかもだけど
そこを急いだあまり
大切なものを失わせたくなかったから
息子のペースに寄り添っただけだったんだけどな

「こどもなんて100人いたら100通り」

そう言った石原氏も、4人の子ども達に
自分の想いを引き継いでくれとばかりに
一辺倒の教育を施すことはなかったという
それよりも、その「子」を見守っていた
とインタビューで言っていた

そう
たぶん同じように寄り添って見守っていたんだけどな
ネグレクトじゃないと思うんだけど

どっちがいいと言いたいわけではない
ただ、どんな形も選択もアリで
だからこそお互いがお互いを否定してほしくないな
ということだった

最終的に後悔しないように自分の価値観で
自分で決めて進んでほしい
自分が自分の生き方を選択したように
周囲の人もそれぞれの価値観で
選択した道を進んでいる
それだけは配慮してほしいけど

過去の人々が築いた礎を借りる

何の本か忘れたけど
誰の著書かも忘れてしまったけど
ずいぶん前に読んだ本で
そんな事が書いてあった
それも何かの引用だったけど

自分一人でゼロから築くよりも
過去に同じことに挑戦されてたであろう
そして築き上げられたであろう礎を借りることで
少し早く、その上を積み重ねることができる
ということで

つまるところ
「先人の知恵を借りよう」
ということだ

本ってすごい

石原慎太郎さんは亡くなり
残念ながら
この後どんなに頑張って何をしようとも
接点など生まれることは無くなってしまった
彼の言うように死後は虚無だと思っているので
あの世での接点も期待していない

でも、彼は作家なので
遺した作品が沢山あって

だから

これを機会に手に取ってみよう、と思う
さて、新しい本でも探しに行こうかな

最後まで読んでいただきありがとうございます!