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「耳障りの良い言葉」を考えてみたら

昨日、
「耳障りの良い言葉」というワードが耳に入って
あぁ、そういえば「耳障りの良い言葉」って
定義が曖昧だな
なんてつまらないことを思ってしまったので
少し考えてみました

耳障りの良し悪しがわからない

耳障りの良い言葉

というのが、良くわからなくて
とはいっても、会話の中に出てくるような
「耳障りの良い言葉にだまされた」みたいな
そういう例えとか
意味は分かっているつもりなんだけど

人が思う「耳障りの良い言葉」が
もしかしたら自分には響かないだけかもしれない
と視点をかえてみて、ちょこっと考えてみたんです

そうしたら、自分の今までの中で
人づきあいが苦手で避けていたのはなぜなのか
それをちょっと裏付ける理由にもなりそうな
根底にある「ひねくれ」が見えてきました

ひねくれ

たぶんそれらの言葉は一人前に響いてはいるんだけど
その言葉の裏に
「これならターゲットに刺さるだろう」
「これなら心を動かせるだろう」
という裏の声を聴いてしまうから
「耳障り良い」とは最初から思えなくて

これならお前、よろこぶんだろう?とか
こんだけリサーチしたんだぜ、感とか
マーケティング的な計画性
……みたいなのを読み取ってしまう
だからそれは自分にとっては一瞬でも良い言葉じゃなくて
最初から「気持ち悪い言葉」なんだなって

なんて嫌な奴だ、と思った

「ここで泣いてほしい」みたいな
テレビ番組の感動シーンとか
その意図を真っ先に感じ取って
逆に冷ややかにみてしまう
取って付けた物みたいに感じてしまう

その人の本心からあふれ出てるであろう感情とか
完全に感情移入できるほど繊細に作られた物語とかになら
文字でも音声でも画像でも映像でも
純粋に感動できるんだけど

ホント、嫌な奴

残念な習性

同様に「奇をてらった」言葉とか
「気を使って誉めてくれた」言葉とか
普段は察しが悪いくせに
そういうのだけはなんだか敏感に読み取ってしまって
期待されてる反応が返せない、とか
本心じゃない言葉に対して嬉しい顔ができない、とか
思ってしまう

言葉を言葉のままに受け取って
その通りの反応しかできない自分が
嫌だったのかもしれない

その言葉を言葉のままに受け取っちゃだめだって
分かった時ですら
その言葉通りの反応しかできない自分が
嫌だったのかもしれない

だから人を避けていたのかな、と思う

それは冗談を冗談で返せなかったり
うまい切り替えしができなくて固まってしまったり
皮肉にまともに答えてしまったり
その反応を面白がってからかわれたり笑われたり
そういう経験で培ってしまったものかもしれない

結局不器用

その辺が読み取れたからと言って
上手く反応できるわけではなくて
逆に自分も「耳障りの良い言葉」なんかを
活用できるのかというとそうではなくて
結局不器用なんだな、という結論

表とか裏とか
受け取って考えて対処することが
難しいから避けたかっただけだったんだなぁ

でも、これからやってみたいこと

今はこうやってインターネットが普及して
反応に一定の距離とか時間をおけるようになって
客観的に考えてから返事しても良くなって
それでも言葉を返すのは怖いことではあるけど
少しは楽になったと感じる部分はあって

なので、少し積極的に
直接的な関係ではないけど積極的に
noteでは人と関わってみようかなと思ってます

なかなかできないんですけど
突如コメントとか発信したり
急にフォローとかするかもしれないので
驚かずに見守っていただけたら助かります

最後まで読んでいただきありがとう
ではではまたまた

最後まで読んでいただきありがとうございます!