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【小説】天国へのmail address     第五章・そうだったのか優君!

旅立ちの時
 橘は清々しい思いで山間の舗装がされていない道を歩いていた。周りにいろいろな世代の人が同じ道を真っすぐに歩いている。
「ずいぶん長い時間この道を歩いているけれど疲れないですね?」橘は隣を歩いていた老婆に尋ねてみた。
「そうですね。この道は何処まで続くのやら長い道ですね」老婆は息が切れる事もなくすいすいと歩きながら言った。
「大丈夫ですか? 少し休んだ方が良いのではありませんか?」橘は老婆を気遣って言ったが老婆はすいすい歩きながら言った。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。どういう訳か疲れません」
「はあ、確かに私もなぜか疲れません」橘は笑って言った。そこに、テレビで見覚えのある顔が橘達を追い越すように歩いてきた。
「あの人は確か有名な俳優さんではないですかね」橘は年老いたその男を指差して老婆に言った。
「そうです、そうです。若い頃から私はあの人のファンでしたよ」老婆は目をキラキラと輝かせながら言った。
「何というお名前でしたっけね?」橘はとっさに名前が出てこないで戸惑った。
「歌舞伎俳優の中川金次郎(なかがわきんじろう)さんですよ」老婆は嬉しそうに言った。
「そんなにお好きならサインでも搔いて貰いますか?」
「頂けますかね」
「私が頼んでみましょう」橘は追い越された俳優に追いつこうと小走りに走った。
「中川さん! 中川先生」橘は走りながら歌舞伎俳優に声を掛けた。するとその男は立ち止まり振り返った。
「わしに何か御用でござりますかな?」
「失礼いたします。恐れ入りますが歌舞伎俳優の中川金次郎先生ではありませんか?」
「いかにも中川でござりますが、先生ではござりませぬ」男は丁寧だが古風な口調だ。
「すいません。こちらのご婦人が中川先生、いや失礼、中川さんの大ファンだそうで是非サインを頂きたいと言っているのですが、お急ぎでなければ少しの間お時間をいただけませんか?」橘は追いついてきた老婆を紹介した。
「ありがとうござります。サインなら構わぬのだが、残念な事にペンも色紙も持っておらぬ、いかがいたそう」金次郎は両方の手のひらを空に向けて大げさなジェスチャーをした。
「奥さんは何か持っていますか?」老婆はポケットのありとあらゆる所を探ったが出てきたのは五円玉が六個だけだった。
「これしかありません」そう言う老婆に橘も自分のポケットを探ってみた。橘のポケットから出てきたのは六十円とセブンスター一箱とマッチだけだった。
「ペンだけでもあれば服に書けるのだが、カメラかスマホで記念写真でも撮りますかな?」中川が提案した。
「それは良いアイディアですね」橘は自分のスマホを捜したがどこにも見当たらない。
「おかしいな? 昨日までは確かに持っていたのに、どこかに置き忘れたようです」橘は困り果てた。
「わしもじゃ。スマホは肌身放さず持っていたはずなのだがどこにも見当たらない」
「私はもともと持っていません」老婆が言った。
「それでは先に進みましょう。こんなに人が歩いているのだから、きっとペンの一本ぐらい何方かが持っているでしょう。それに、なんだか先に行かないといけない気がしてなりません」橘が提案した。
「一緒に歩いていただけるだけでも良い思い出になりますよ」老婆は嬉しそうだった。三人で先を急いでいると前方から走って来る男がいた。
「いや、今しばらくお待ちくだされ!」金次郎がその男に声を掛けた。
「何です? 私は急いでいます。二十四時間しか与えられた時間がないのです」男は言った。
「この先には何があるのです?」橘が急ぎ聞く。
「行けば分かりますよ」との答え。
「でも、こんなにたくさんの人が歩いて行くのに戻って来るのは貴方だけです」橘は早口で聞いた。確かに橘達以外でも、多くの人が歩いて行くのに戻ってきたのは彼が初めてだった。
「だから、ゆけば分かります。私はとにかく言い残した事を伝えなければならないのです」男はそう言い残すと足早に立ち去って行った。
「この人の列は、先の高い山を登っていくようじゃが、奥様は大丈夫ですかな?」金次郎が老婆を気遣って言った。
「私はなぜか若い頃の様に疲れません。大丈夫です」
「では、行くだけ行ってみましょう」橘は一同を促した。高い山をふたつ越えて、お花畑のようにいろいろな種類の花が咲き乱れる長い下り坂を下って、三人がたどり着いたのは幅の広い大きな湖畔のような場所だった。
 
 
畔での出来ごと
 そこには豪華客船が停泊しており、乗船口まで果てしなく行列が出来ていた。橘達はその列を仕切っている係らしき人に話しかけた。
「すいません! お尋ねいたします」橘はその男に声を掛けた。
「はい、何でしょう」男は笑顔で答える。
「この船は何処へ行く船なのですか?」橘は豪華客船を指差して聞く。
「この船は向こう岸へ行く船ですよ」男は肉眼ででは見えない遠くの岸を指して答えた。
「これは、湖? いや海でござろうか?」金次郎が更に聞く。
「これは川ですよ。私はこの岸の門番を仰せつかっております」
「門番?」橘は何が何だか分からなくなっていた。他の二人も同様であった。
「向こう岸には一体何があるのですか?」橘は戸惑いながら聞いた。
「向こうは『黄泉(よみ)の国』でございます」
「黄泉の国という事は、この川は三途の川という事でござるか?」金次郎は驚きを隠せなかった。もちろん橘も同様だ。
「大概の方はここであなた達と同じ質問をいたします」門番は言った。
「私達は死んだという事ですか?」橘が恐々聞いた。
「そうです。皆さんここまで来て初めて気が付きます」門番は慣れた感じである。
「私は乗船券を持っていません」老婆は不安を隠しきれない。
「チケットは不要です。現金で乗船出来ます」
「現金と言われても私には持ち合わせがありません」橘はポケットから六十円を出して門番に見せた。
「これで足りますが、おつりは出ませんよ」門番は橘の手のひらにあった十円玉のひとつを指して言った。
「十円で足りるのですか?」
「はい。乗船料は六文です」
「三途の川の渡し賃は六文。昔からそう言われていますね」老婆は年の功で言った。
「しかし、わしは一万円札一枚しか持っておりませぬ。おつりが出ないとなると無一文になってしまうが、『黄泉の国』にも歌舞伎はあるのであろうか?」金次郎にはお金を稼ぐ方法が歌舞伎しか思いつかなかったのである。
「もちろん歌舞伎座もあります。あなたのよくご存じの大御所の方々が毎日のように舞っております。また、向こうではお金は必要ありません。『黄泉の国』には病気も争い事も一切ありません。やりたい事を自由にすれば良いのです」門番は笑いながら言った。橘達は自らの死を受け入れるしか他に方法はなかった。
 
 体に浸み込むようなドラの音が鳴り、ボーボーという汽笛の響きと共に大きな船はゆっくりと動き出した。気が付くとさっきまで大勢の人が列をなしていたのに全ての人は乗船し終わっていた。
「乗り遅れてしまいましたね」橘が言った。
「いえ、皆さんは次の船の予定です」門番は手にした名簿を見ながら言った。
「あなたは、私達が誰か分かっているのですか?」橘が聞くと門番は名簿を差し出して言った。
「橘様・中川様と鈴木千恵子(すずきちえこ)様ですね。お三方は次の船の予定ですのでしばらくの間この辺りの風景でもお楽しみいただき出航時間になりましたら、またここへお集まりください」門番はそう言った。
「次の出航時間はいつですか?」橘が聞くと門番は遠くの方を指差して言った。
「あの小さく見える船がこちら岸について、乗客の下船手続きがすみ次第、出航の準備に入ります。皆様の出航は二十四時間後でございます」
「乗客と言う事は『黄泉の国』からこちらに戻って来る人も居るのですか?」橘は好奇心にさいなまれて聞いてみた。
「どうしても現世に戻らなければならない、特に、現世の異変を修正しなければならないと判断された人は申請すれば一週間だけ戻る事が出来ます」門番が言った。
「申請はいずこに、いかなる場所で行うのであろう?」金次郎も興味津々で聞いた。
「向こう岸にも私のような門番がおりますのでそこで、彼らに申請をし、許可が下りれば復路船に乗船出来ます」
「私は、孫にもう一度だけ会いたいのですが、申請すれば戻れますかね?」千恵子が聞いた。
「個人的な理由ではほぼ無理でしょう。鈴木様が戻らないとお孫さんに危険が生じるなどの理由があれば別ですが」
「こちらの岸から船に乗らなかったらどうなります」橘が疑問を投げかける。
「一生、俗世界をさまよう事になります。あそこに立札がありますね」門番が川岸に立ち並ぶ選挙の看板のような立札を指差した。
「あそこに貼り出された人は『黄泉の国』へ行かずにさまよっている人『さまよい霊(びと)』達です」
「家族の近くに居られるのならそれも良いかな」橘が言った。
「大体の人はそれを選ぶと後悔します。孤独ですから。現世ではあなたの姿は見えないし、声も聞こえないのです。ただ中にはごくまれにそうでない人も居ます」
「霊感がある人ですか?」
「霊感のある人は極まれにしかおりません。人間は大昔、外敵から身を守るためにテレパシーのような危機を察する力がありました」
「虫の知らせと言うやつか?」橘は察した。
「しかし、人類は進化して、それが無くても身を守れるようになりました。次第にその力を失っています」
「では、どのような人が、私達を見えて話せるのです?」橘は素直な疑問を投げる。
「ひとつは、現世に存在するのに、既にあの乗船名簿に名前が載っている人です」門番小屋と看板が掲げられた小さな小屋の前に設置されたテーブルに厚手の冊子が山のように積まれていた。
「死が決まっている人と言う事ですか?」橘が言った。
「橘さんは半年以上前から名簿に載っていましたよ」そう言われると主治医に死を宣告されたのがその頃だった。
「死が決まったら霊が見える、つまりそういう事か」
「そうです、決まっているか、自ら死を覚悟した人ですね」門番は乗船名簿の山を指差して言った。
「もうひとつは、一度『黄泉の国』の住民になった者が、現世の特に思い入れのある場所や空間を共有出来る人間には、ぬくもりまで感じる人も居ます。」
「『さまよい霊』でも現世の人に見える事があるのか? 妻なら私が見えるのではないだろうか?」橘は淡い思いを抱いた。
「お奨めはしません」
「駄目だったら戻ってくればよいではないですか?」橘は食下がった。
「残念ながら橘さん達は次の船以外の船には乗れません。別の船に乗るには、先ほどご説明いたしましたように『黄泉の国』から戻ってきた人と一緒に戻るしかありません。なかなか難しい事です。ほとんどの方が現世をさまよい続けます」
「もうよろしいですか? やる事が山ほどありますので」門番はそう言うと小屋に入って行った。
 
 
そうだったのか
 残された三人はただ川の畔に座っていた。隣では若いカップルがスマホを片手に記念写真を撮っていた。
「二十四時間とは暇ですな」金次郎がぽつりと言った。
「私はそのあたりを散歩してきます。また、船でお会いしましょう」橘は腰を上げた。
「お気をつけて行っていらっしゃい。と言うのも変ですかな? 私達は既に死んでおるのですからな。ハハハ」金次郎が笑った。
橘はいったん二人に別れを告げて、ひとりで川の畔を歩いていた。すると先ほど門番が言っていた立て看板が目に入ってきた。橘はそこに貼り出された名前と写真を見ていた。『有名人もけっこう現世をさまよっているのだな』そこには若者に人気のあった歌手やお笑い芸人など、現世のテレビ画面を賑わせていた顔が相当数並んでいた。そんな事を思いながら橘は次々と並ぶ写真を見ているとある一枚の写真で目が止まってしまった。
「そ、そういう事か!」橘は急に叫んだ。同時に彼は、門番のいる小屋に向かって走り出した。
「すいません! 門番さん!」橘は小屋のドアを激しく叩きながら叫んでいた。
「どういたしました」あまりにも慌てた橘の行動に門番はドアを開いた。
「どうしても現世に戻らなければならない事が出来てしまいました。方法を教えていただきたい」橘は慌てながらも真剣に訴えていた。
「今この時に現世に戻ると言ってもあなたは既に火葬されておりますから、戻れても死を迎える寸前の肉体にしか戻れませんよ。一度『黄泉の国』にわたって申請をすれば、一週間だけですが自由に動けますからそうしたらいかがですか」門番は橘の真剣さに打たれてつい本当の事を言った。
「かまいません。次の船までには必ず戻ります」橘は自信がないにもかかわらず必ずと言った。現世で開かれる第三者委員会の保護者説明会を正しい答えにしなければならないと橘は思ったのだ。
その為には何時も優君と連絡をとっていたスマホが必要であり、優君に連絡をしてほしい旨を妻に伝えたいと考えたのだ。賭けだ、優君が自分に会いに来てくれるか? 妻が優君の姿を見る事が出来るか? 全てが賭けだ! しかし、少しでも早く優君に会うにはこの賭けに勝たなければならない。橘は真剣であった。
「……」
「お願いします。教えてください!」橘は懇願が門番の心を動かした。
「今来た道を戻りなさい。やがて二股に分かれますから右へ行きなさい。道が分かれたら右へ、とにかく右へと行きなさい」門番は静かに言った。
「それと、あの人達はどうしてスマホを持っているのです?」橘はついさっき記念写真を撮っていたカップルを指差して言った。
「あの方々は自動車事故でお亡くなりになりました。事故でしたのでスマホも壊れました。つまり彼らと同時にスマホも死んだという事です」門番はその理由を教えてくれた。
「スマホが死んだ。なるほど分かりました」橘にはようやく今いる世界の仕組みが分かってきた。自らの死と同時にスマホを壊してもらえば手に入る。
「後二十三時間で出航ですがどうしても戻りますか?」門番は心配だった。
「戻ます。そうしないと大変な事になってしまいます」橘の決心は揺るがなかった。
「何か事情があるようですね。それではこれを持ってゆきなさい」門番は古びた懐中時計を橘に手渡した。
「これは?」
「これで時間が分かります。出航時間になるとブザーが鳴ります。その前に船に乗っていないとあなたは『さまよい霊』となり現世で孤独な生活をおくる事になります」
「ありがとうございます」橘は丁寧に礼を言うと走り出した。
「必ず戻って来なさいよ」門番の声が橘の背中に響いていた。橘はとにかく走った。息は切れない。向いから歩いて来る人に『この先には何かありますか?』と聞かれたが『時間がない! ゆけば分かる』とだけ答えて走りつづけた。いくつか山を越え、やがて道は二股に分かれた。橘は門番に教わった通り右の道へ向かった、いくつか分かれ道を右に走った。ある瞬間! 辺りは闇になり、急に体が重たく感じるようになった。
                               つづく
 

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