見出し画像

【小説】KIZUNAWA②          溢れ出た涙の理由

  楠太陽(くすのきたいよう)はスタジアムまでの送迎バスの中にいた。本来サッカー部の彼は駅伝部の応援スタッフとして最終中継所まで走って来た同級生の雅人を迎え入れ、襷を引き継いだ航平のジャージや私物を集めてゴールまで運ぶのが仕事だった。
雅人は、区間新記録をたたき出し、襷を繋ぎ終えた安堵感からか隣の席で静かな寝息を立てている。
太陽は雅人に自分のジャージを掛けると車窓から見えるスタジアムに目をやった。さっきから一向に近づいて来ないスタジアム、バスは駅伝の交通規制から起きる渋滞につかまってノロノロ運転であったのだ。
「これじゃあ間に合わないな」
太陽はポツリと呟いた。茉梨子が喜びに光り輝く瞬間を一目見たいと思っていた太陽だったが、この渋滞では仕方がない事かと諦めた。
 
 太陽と茉梨子は幼馴染である。親同士の仲が良かった事もあり、幼稚園から何時も一緒だった。中学生になる頃、太陽は私立の上田北高等学校中等部に進路を決めた。渡野辺昇(わたのべのぼる)というサッカー部の指導者を慕っての事だった。茉梨子は公立の学校に進学、休日は太陽の応援に出掛ける事が良くあった。ある日、試合の帰り道を二人で歩いていた夕暮れ時、杖を突いた老婦人が一人でバスを待っていた。太陽は良くある風景と思っていたが茉梨子にはそう映らなかった様だ。
「なんか可哀そう」
そう呟いた茉梨子は太陽の袖を引っ張り立ち止まった。バスが来て、その老婦人が安全に乗り込むのを見届けるまで見ていた事がある。
「誰も迎えに来てくれないのかな?」
茉梨子の言葉を聞きながら帰路についたこの日、太陽はそれまで幼馴染であった彼女を一人の女性として感じ始めている自分に気が付いたのである。
 
 高校生になって茉梨子も上田北高に入学した。太陽は当然自分の所属するサッカー部のマネージャーに入部するものと思っていたが、それに相反して茉梨子は、駅伝部に入部した。一学年上の先輩に尊敬以上の思いを抱いたからだ。しかし、その先輩は彼女を妹の様にしか思っていなかった。彼は駅伝で長野の片田舎から全国大会のゴールである京都市松菱スタジアムまで母校の襷を繋ぐという駅伝部の夢を実現する事以外は眼中になかったからだ。彼女の淡い想いは、駅伝部の壮大な夢には太刀打ち出来ないまま、入学から二年が経っていた。太陽と茉梨子のそれぞれの片想いは今も続いている。
 
 相変わらずバスはノロノロ運転だ。(これなら走った方が早かったな)と太陽が心で呟いた時、スタジアムの方角からドッン・ドドーンと音が聞こえて来た。遠雷の様なそれは、合計六回飛び跳ねる様に響きわたり、勝利者たちを祝福する音に聞こえた。
「ゴールしたな」
太陽が呟いた。中学生の時、太陽がピッチで走り回っているのを茉梨子は何時もスタンドで応援してくれていた。何時か国立のピッチに立ちたい。太陽の夢は自然と茉梨子の夢にもなっていた。試合で勝っても負けても横には何時も茉梨子の笑顔があった。でも、今日は逆だ。駅伝部のマネージャーとしての茉梨子を太陽がサポートした。(あいつの方が先だったか)きっとゴールでは過去最高の笑顔が待っているのだろう。そう思うと太陽は速くスタジアムへ行きたかった。おめでとうと思いっきり彼女を抱きしめてあげたい気持ちで溢れていた。
しかし、そんな太陽の気負いと裏腹に再度バスはスピードを落とし始め、とうとう左側に停車してしまった。対向車も端によけハザードランプを点滅させている。遠くから聞こえていた救急車のサイレンがどんどん近づいて来て通り過ぎて行った。
「今度は事故かな?」
太陽は目覚めた雅人に語り掛けた。
「表彰式には間に合うと良いね」
「ゴールしたのか?」
「多分、さっき花火が上がったから」
「おめでとう。全国大会だね」
太陽は右手を差し出した。
「ありがとう」
雅人はその手に自分の右手を重ねると固い握手が交わされる。
 
 バスがスタジアムに到着した時には殆どの高校がゴールし終わっていた。太陽と雅人がグラウンドに入ると電光掲示板には入賞校の名前とその記録が映し出されていた。その一番上に光っていたのは上田北高等学校である。二時間六分一六秒、堂々たる優勝だった。
「胸張って表彰式に行ってこい!」
太陽が雅人の背中を両手で押した。雅人が頷いて歩き出した時だった。
「楠君!」
太陽は、後ろから名前を呼ばれて振り返ると、そこには駅伝部の顧問教諭、宮島(みやじま)幸男(さちお)が立っていた。優勝校の顧問なのに何故かその顔に笑顔はなかった。
「何時も手伝ってもらって本当に感謝しているよ。ありがとう」
そう言うと宮島は右手の人差し指を立てて申し分けなさそう
「もうひとつだけ助けてもらえないだろうか?」
「僕に出来る事なら言って下さい」
「実は鎌田君がゴールの直後に具合が悪くなってしまって救急搬送されてね、広江さんが一人で付き添って行ったんだよ」
宮島は、一度呼吸を整えた。
「彼女一人だと心細いと思う。私たちも表彰式が終わったらすぐに行くから、楠君は先に行って広江さんに付いていて貰えないだろうか?」
宮島は不安を隠しきれず、その顔には悲壮感が表れていた。
「分かりました。それで先輩の様子は?」
「あまり良くないらしい」
「広江さんにも電話が通じない。電源を切っている様だ」
宮島は首を横に振った。
「病院は何処ですか?」
「尾張総合病院だ、今タクシーを呼ぶから」
宮島がポケットからスマホを取り出そうとするのを太陽が制止した。
「尾張総合病院ならサッカー部が何時もお世話になっている旅館の隣だから分かります。今の交通事情なら走ったほうが早く着きます」
そう言うなり太陽は走り出した。
 
 茉梨子は戸惑っていた。今見ている事と聞いている事が到底信じられない状況だったからだ。
「救急三号染谷です。一〇代男性、血圧五〇を切っていて、呼吸が乱れて胸を押さえ苦しんでいます」
「はい! はい尾張総合病院ですね。了解しました」
救急車に乗った時から救急隊員による航平に対する献身的な救命処置は続いている。
茉梨子は宮島に通信アプリのM・ラインで搬送病院名だけを送った。
「すみません。スマホの電源は切って下さい」
「ご、ごめんなさい」
茉梨子は今にも泣きだしそうな声で謝ると即座にスマホの電源を切った。救急車は時速四〇キロを保ちながら走っている。茉梨子は、もう少しスピード出せないのかな? と思いながら心だけが焦っていた。
「はい救急隊染谷、はいレスポンスタイムは八分です」
染谷救急隊員は病院の医師からの問いに答えていた。
「五分で運べないか? 急性心筋梗塞なら一分一秒でも速く処置をしないと危険だ!」
尾張総合病院の当直医は電話の向こうで叫んでいた。
「五分で行けるか?」
染谷はドライバーに叫んだ。ドライバーは無線を取ると分署の仲間に連絡をとった。
(田村さん! 今朝、市内の道路事情を調べていたね? どうぞ)
(はい、田村です。私調べました。どうぞ)
(今時速四〇キロで若葉区南交差点に差し掛かるところだ。ナビは直進を指示してきているがナビの指示通りだと尾張総合病院到着時間が八分後になっている。五分で到着する方法はないか? どうぞ)
(若葉区南交差点を左折して下さい。次に二本目の交差点を右折。どうぞ)
(遠回りになるぞ。良いのか? どうぞ)
(若葉区南を直進すると踏切になります。遮断機に止められたらかなりのロスになります。遠回りでも陸橋を越えた方が確実です。どうぞ)
(了解!)
(それと、陸橋を越えたら一本目を右折して下さい。二本目が一番良いのですがその道は本日、下水道工事が行われています。臨時信号と警備員の誘導に間違いがあればロスになります。一本目を右折し尾張総合病院の東入口から駐車場を抜けて救急搬送口に入ったほうが早いと考えます)
(ラジャー!)
田村は消防隊員になって一年目の新人女性隊員である。現代はナビゲーションシステムにより救急搬送もスムーズに行われる様になったが、道路工事など街事情を機械には分からない。田村は出勤すると市役所や関係各所に連絡を入れ、その日の街事情を把握していた。これは誰に命令された訳でもないが、女性らしい繊細な思いやりと少しでも多くの命を助けたいと願う使命感から来る行為であった。
(先輩なら五分で行けます。グッドラック)
「凄い奴だ」
ドライバーは親指を立ててサインを出しながら呟いた。
「先生、五分で行けます。このまま直行します」
前方を走る乗用車が次々に左によってハザードランプを出す。対向車も同じ様に道を空けた。大型バスが左のガードレールぎりぎりまで寄って止まっていた。
救急車は五分で目的地に着いた。救急搬送口には医師とスタッフが待ち構えていて即座に航平をストレッチャーに移すと処置室に向かって速やかに移動した。緊迫した状況に茉梨子はどぎまぎしながら必死についていく。
「ここでお待ち下さい」
茉梨子は処置室の前で看護師に制止されてしまった。茉梨子は何も出来ない自分が悔しかった。しばらくして航平の両親が駆けつけて来た。茉梨子は事情を説明するのがやっとで、他の言葉は出てこなかった。やがてストレッチャーは処置室からレントゲン室に移動されていった。
 
 雅弘は長野市の実家でテレビを観ていた。航平の異常を伝えるニュースはライブ映像で伝えられていた。
「父さん! 競技場の救急車は何処の病院へ搬送するか調べられないかな」
雅弘の父親は長野市消防局の次長を務めていた。
「それは無理だろう」
「そこを何とか調べてもらえないかな。どうしても担当医師に伝えなければならない事があるんだ。命の問題なんだ。頼むよ父さん!」
あまりにも真剣な息子の姿に異常を感じた父親は部下に電話を入れた。
「尾張総合病院だそうだ」
父は電話を切ってから呟いた。
「近くだ。車出してくれないか?」
雅弘の父親は車のキーを手に取ると直ちに車を出した。車が尾張総合病院に到着したのは救急車とほぼ同時であった。
「ありがとう! 恩に着るよ」
「何を水臭い事を言っている親子じゃないか。早く行け、急ぐのだろう」
雅弘は頷くと病院の中に姿をけして行った。
 
「お父さんですか? 医師の伊藤です」白衣の医師が航平の父親に話し掛けて来た。
「先生! 航平は?」
「今、CT検査をしていますが、おそらく心筋梗塞ではないかと考えます。今までに病院に掛かったとか、胸に異常を感じたとかは無かったですか?」
「定期健診と言って病院には行っていましたが、特に苦しいとか言う事は無かったと思います」
航平の父親は茉梨子に目線を向けた。茉梨子は静かに首を振った。
「地元の病院は?」
「真田南総合病院です」
「本高校の運動部は皆そこで診てもらっています」
茉梨子がか細い声で囁いた。
「循環器内科の牧島先生が先輩の主治医です」
突然茉梨子の後ろから声がした。振り返った茉梨子の目には、雅弘の姿が飛び込んで来た。
「石川君! どうしたの」
「たまたま実家にいて、テレビで知った。先生、先輩は心臓に狭窄があって牧島先生からは走る事を止められていたんです」
「何時からです?」
「僕が知ったのは今年の春、僕が骨折をした時です」
「真田南総合病院の牧島先生ですね。彼とは交流がありますので確認します」
伊藤医師はバックヤードに姿を消した。苦しそうな航平を乗せたストレッチャーが再度処置室に移動して来た。茉梨子たちはただベンチに座って待つ事しか術がない事を悟った。
「石川君はどうして知っていたの?」
「骨折の治療に言った時、鎌田先輩が循環器内科から出てくる所を見てね、心配になって、あの病院で看護師をしている姉に調べてもらったんだ」
「知っていたのならどうして止めてくれなかったの?」茉梨子は雅弘を睨み付けた。
「勿論止めたよ。止めたけれど、この事は誰にも言うなと逆に止められた」
「何故?」
「お前たちのためだろう。後輩に大会出場を我慢させ、自分が理由で駅伝部を離脱する事は出来ないと言っていた」
 
(ピ――)

 冷たい機械音が聞こえた。茉梨子は何が起こっているのかを考える事すら出来ないでいた。
処置室から救急隊の染谷が出て来た。彼は祈る四人に対して言葉はなく黙って首を横に振った。
航平の母親はその場に泣き崩れてしまい、父親は彼女を支えるのがやっとだった。伊藤医師が処置室から出て来て、その場にいる全ての人が信じられない言葉を言った。
「残念です」
「何故です?」
航平の父親が医師に詰め寄ったがどうする事も、状況が変わる事も当然なかった。
「やはり急性心筋梗塞です。出来るだけの処置は致しましたが力が足りずに……」
医師は頭を下げた。伊藤医師が真田南総合病院に問い合わせ、即座に春からの検査結果がメールで送られてきていた。検査結果は心臓へ繋がる動脈に狭窄が見られ、走る事を制限されていたとの事であった。
「私が主治医でも走る事など認めませんでしたよ。それだけ危険な状態であった事は否めません。残念です」
伊藤医師は深々と頭を下げた。そして、呆然と立ちすくむその場の人を見まわすと静かに言った。
「広江さんは貴女ですか?」
頷く茉梨子を直視すると医師は一枚のメモを茉梨子の前に差し出すと続けた。「彼の最後の言葉です。貴女に伝えてくれと頼まれました。その後意識を失い心肺停止状態に陥りました」
茉梨子はそのメモを開く事すら出来ず力なく手に取るのがやっとであった。きっと夢だと自分に問いかけ、夢なら早く覚めてくれと願った。さっきの優勝も夢で良い。夢ならばもう一度やり直せる。そう思うと茉梨子は少しでも明るい方へ歩き出した。明るい方へ行けば夢から覚めると思ったのである。
しかし、夢は覚めるはずもなく、悲しい現実だけが茉梨子に襲い掛かっていた。茉梨子は窓際のまで行くとしゃがみ込んでしまった。雅弘は黙ってその姿を見ていた。このままだと、茉梨子もまた航平と同じ方向へ行きそうで心配だったからだ。 
 
 走りながら太陽は近道を考えていた。尾張総合病院は太陽たちサッカー部が長野市で試合や大会がある時は何時もお世話になる定宿、倉田旅館の隣にあり太陽には土地勘があった。スタジアムから五キロの距離だろうか。太陽は大通りから路地に入った。人力の強みである。
商店街の通りに出ると手前の八百屋の前に見慣れた顔を発見した。倉田旅館の女将倉田里美(くらたさとみ)だ。女将は八百屋のおばちゃんと何やら世間話をしていたが必死に走る太陽を発見すると声を掛けた。
「太陽。今日、試合はないだろう?」
太陽は足を止めると手短に事情を説明し尾張病院まで急いでいる旨を伝えた。瞬間、女将の顔つきが変わった。鋭い目で太陽を見ると顎をしゃくり
「乗りなさい!」
と路上駐車してあった軽自動車に乗り込む。
「でも、渋滞が」
戸惑う太陽を無視して女将はと叱りつける声で言う。 
「早くしなさい!」
「でも、渋滞が」
太陽は繰り返した。
「私が何年この街で暮らしていると思うの。任せなさい」
女将は太陽が助手席に乗り込むや否やアクセルを踏み込んだ。真っ赤な軽自動車は息を吹き込まれたかの様に急発進する。太陽はシートベルトにしがみつきながら足を突っ張っていた。
自動車は細い路地をまるで生き物の様に走る。渋滞の大通りを横切ると路地から路地へと走り続けた。
「おばちゃん大丈夫か?」太陽が叫ぶと「お姉さんとお呼び!」と意味のない答えが返って来た。
 
 太陽は初めて女将に会った日の事を思い出していた。中等部の大会に出場するため太陽たちは合宿を兼ねて倉田旅館に宿泊した。顧問の渡野辺先生は、隣が救急指定病院である事や女将が子どもたちの栄養バランスを考えた食事にまで気を配ってくれる事、地域の顔役で練習グラウンドまで用意してくれる事などからサッカー部の定宿として伝統になっている。女将夫婦には子どもがなく、太陽たちを我が子の様に扱い、優しいだけでなく時には厳しく叱咤された事も数えきれない。そんな女将を太陽たちは親しみを込めて「おばちゃん」と呼んでいたらある日「お姉さんとお呼び!」と笑えない冗談を言われた。それを期に女将を「里見お姉さん」と呼ぶ様になり更に略して「里ねえ」と呼ぶ様になっていた。しかし、この時の太陽は車のスピードへの恐怖と茉梨子への心配心から「里ねえ」と呼ぶのを忘れて思わず昔の様に「おばちゃん」と呼んでしまったのだった。車は突き当りの壁すれすれの所で停車した。
「ここからは走りなさい! 車はもうバックにしか動けない」気が付くとその壁は尾張総合病院の塀だった。車は前にも左右どちらへも動けない状態で止まっていた。
「おばちゃんありがとう!」太陽はそう叫ぶと病院の入口に向かって走り出した。
「お姉さんとお呼びー!」優しい声が後ろから追いかけて来た。
 
 休日の病院は静かである。救急搬送口と書かれた案内板の前に救急車が止まっていた。赤色灯が回るカランカランという音だけが響いていた。救急口から院内に入ると狭い廊下が続いている。角を曲がると更にそこから処置室のある右に続く狭い廊下と放射線科や整形外科内科と続くメインの廊下へと分かれていた。
処置室の前には救急隊員と白衣を着た男性、中年の男女が話をしている。中年の女性は男性の支えがないと立っていられないほど弱々しい感じであった。
(何かあった)太陽は明らかに他とは違う空気の流れ感じ、とっさに茉梨子の姿を捜し求めていた。
 
 茉梨子は、メイン廊下の一番奥に座っていた。俯いてもうこれ以上小さくなれないほど屈み込んで震えている。その後ろで、雅弘が外を見て立っている。
「石川! 何があった? 先輩は?」
畳み掛ける太陽の質問に雅弘は無言で首を振った。
「お前が来たのなら俺の役目は終わりだな。広江が相当落ち込んでいるぞ!支えてやれるのはお前しかいないだろう」
雅弘はそう言い残すと病院を後にして行った。その姿にも力がない事を太陽は感じていた。
 
「茉梨子」
太陽は出来るだけ優しい声で呼びかけた。その声に顔を上げた茉梨子の目には、今にも零れ落ちそうなほど涙が溜まっていて、その顔は悲しみと不安と絶望に支配されていた。
「急性心筋梗塞だって」
「……」
「先輩、死んじゃったんだよ」
「……」
「信じられる? さっきまで元気に走ってたんだよ」
「……」
太陽は何も言えなかった。ただそっと茉梨子の肩を抱き寄せた。
「もう息してないんだよ。ねえ太陽は信じられる? 何か言ってよ」
悲しみの四面楚歌の中から絞り出された言葉。それを言うなり茉梨子は太陽にしがみつくと大声で泣き出した。力なく膝から崩れ落ち立っていられない。左手で太陽のジャージを握り締めて右手で肩から胸を叩き続けた。
「死んじゃったよ。航平先輩死んじゃった」
堪えきれずに溢れ出た涙が太陽のジャージを濡らしていた。
 
 太陽は今までこんな茉梨子の姿を見た事がない。太陽がどんなに落ち込んだとしても茉梨子は何時も笑っていた。そして、その笑顔に何度も救われて来た。これから先もずっとそうだろうと思っていた。でも、今は過去や未来など関係ない、太陽はどん底で震えている彼女のため、自分に何が出来るのかを必死で考えていた。結論は出なかった。掛ける言葉も思いつかなかった。
無言のまま太陽は、抱きしめた茉梨子の肩に力を加えて包み込んだ。茉梨子は太陽の胸に身を委ねると悲しみに溢れた声で泣き続けた。その声だけが沈み掛けた西日に反射して静まりかえった病院の廊下に響いていた。
                              つづく

 キャプテンを失い再起不能の駅伝部、立ち直りまた走り出す事は出来るのか?
上田北高校駅伝部の明日はどうなる!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?