偏見。

 世間はいつだって、偏見で満ちている。たとえばそれは、警察官が行う事情聴取も同じだった。
 生命の香りが無い狭い空間に、個室トイレにも匹敵するほどに狭いその空間には、中央に灰色の机と、それを両方から挟むように冷たいパイプ椅子があった。窓は無く、天井には円形の照明が張り付いていた。
 その空間に存在している人間は三人。そのうちの二人は、二つあるパイプ椅子にそれぞれ腰掛けている古ぼけたスーツを着ている中年と、弱弱しい形相の青年。最後の一人は中年の近くに立っている若い男だった。
 真実だけを追い求めているような眼光をしている中年は腕を組み、青年のうつむいている顔面を覗いていた。青年は自身が睨まれていることがひどくストレスになっているらしく、弱弱しさが一層強まっている。そんな二人を傍観するかの如くただ見ている男は、上司である中年からの、次なる指示を待つだけだった。
 三人は息を殺して佇んでいた。空間に漂う空気感は、到底温かいものではなかった。
 そんな空気に最も嫌気を感じていたのは青年だった。青年は自分がなぜここに居るのかがわからなかった。ここがどこなのかもわからなかった。さらに自分がどういう人間なのかすらも、全くわからなかった。わからなかったが、それでも青年は自分がそこに存在していることはしっかりと理解していた。なので青年は、とりあえずこの場の状況を理解しようと耳を澄ませてみた。もしこの部屋の隣に別の部屋があれば、その部屋の音が聞こえてくるかもしれないと思ったから、青年は中年と男の目を無視して耳に神経を集中させた。
 すると、話声が聞こえてきた。青年はその事実に背中をつつかれたときのような驚きを感じた。死んでいる顔には出さなかったが、それでも青年はしっかりと驚いていた。
「おっぱいがいっぱいってこと」
「ああ? 何がだよ」
 青年が最初に聞いた、壁の向こうの声はそれだった。妙に早口な高い男声に、逆に落ち着いた低音の男声が答えていた。
 青年は、木々が燃え上がるように徐々に大きくなる興奮が体の中に満ちていくのを感じつつ、近くに別の部屋が存在していることの証明である話声にさらに耳を傾けた。
 高い声の男はさらに続けた。
「つまりおっぱいっていうのはお母さんってことだから、おっぱいがいっぱいっていうのは、お母さんがいっぱいってこと」
「でもぼく……お母さんは嫌いだよ。大嫌い!!」
「どうして? なんで、お母さん、嫌いだあ?」
「だって……お母さんは夜になると高い声で叫び散らかすし。ちょっとでもぼくが何か言うと、すぐに大声で反論してくるんだ。そのくせ昼間は何も言ってくれないし」
 二人の会話はその後も続いていくらしい。しかし青年はそれ以降を聞くことができなかった。中年がしたひどく大きい咳き込みのせいで、青年の耳にそれ以降が入ってくることはなかった。
 青年は再び、暗い表情でうつむくだけに戻った。壁の向こうという幻想に耳を澄ましている状態から、現実の息が詰まるような雰囲気の中に戻ると、その重圧がひどく辛かった。
「ええと……」
 中年の座り直しをしながらの独り言をよそに、青年は再び耳に神経を集中させるが、それでも壁の向こう側の声は聞こえてこなかった。まるでさっきまで自分が聞いていたものこそが幻想であると言われているようで、気分がより落ち込んだ。
 そんな中、中年が言った。
「あれ、なんだっけか」青年を視ているままで発せられた言葉は間違いなく男に向けてのもので、男自身はすぐにそれについて察知をしていた。
 男は、ヤクザの親分に子分が煙草の火をつけるように、颯爽と中年が求めている言葉を懐から発した。
「たしか、人を呪わば……」
 しかし男は、そのまますぐに言いよどんでしまった。喉が凍り付いたような感覚になってしまい、パニックが脳すらも混乱させていってしまう。そんな中に中年の、「なんだよ、はやく言え」という言葉が飛んでくる。焦りに焦っている男にとってのそは火に注がれる油のようで、ただ脳内の焦りが増幅されるだけだった。
「ええ、ええ。人を呪わば……ええと、たしか。穴、三つ」
「なんだ、それは」
「……全部毛穴です」青年が低く言った。
「そうだ!!」
「ああっ!」
 男と中年は口をそろえて、さらに顔中のシワを伸ばして言った。というより叫んだ。それは狭すぎる空間に何重にもこだまして、やがて味の無くなったガムのようなそれは、冷たい空気のなかに消えていった。
 それが起こったとき、男と中年はすでに、元のもう後がない受験生のような顔に戻っていた。それは大便を我慢している面接官のようにも見えた。
「そういえば……音が、聞こえなかった」
「音?」中年は眉を上げて、魚のような眼球をさらに見開いて青年に注目した。
「普通ならする音。アスファルトを靴が叩く、コツコツっていう、あの小気味の良い音が、あの時はしなかった」
 青年がゆっくりと顔を上げると、その先に広がっているのはよくある公園の広場だった。空は人工的な青色がどこまでも広がっていてなんだかむしろ怖かった。広場を見渡すとそこにはさまざまな人間が、それぞれ生活をしていた。ベンチに座って日光を浴びている老人も、砂場で服の汚さを気にせずに遊んでいる子供も多かった。
 そんな広場の中心に、青年は直立で居た。近くには眼鏡をかけた男と、青年よりも背の低い男が居た。二人の顔と距離から、この二人は自分の友人なんだろうな、と青年は思うことにした。
 二人と目を合わせていると、不意に眼鏡が口を開いた。
「え、もしかしって、もうぎゅいんぎゅいんって感じ?」
 少しやせている顔つきの眼鏡は、なんだか愉快そうだった。両肩を揺らしてかたかたと笑っていると、それにつられるように青年も笑みがこぼれた。
 その笑みに混ざるのは背の低い男の声だった。
「そうそう! エンジンみたいなね」
 右手を指さしの形にして、なんども青年と眼鏡のことを指さす低身長はやはり楽しそうだった。
 青年は、そんな幸せな雰囲気が満ちている空間が心地よかった。いつまでもここに居たいとすら思え、普段は鬱陶しさを感じている老人と子供の声にも、今なら寛容的になれた。
 満たされている心の中で、青年は言った。
「そうね。まさしく、十億円のフラストレーションね」
 その一言は、近くの砂場に居る少年のまだ未熟な心に染み込んだ。ガーゼに醤油がそうなるように、口内炎にレモン汁がそうなるように、じんわりと、しっかりと染み込んでいった。

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