山羊山山羊之山羊という山羊。

 大学に務める教授のデザイナ、山羊山山羊之山羊(やぎやまやぎのやぎ)が街のガムレベル粘着痰がハニカム構造の如くへばり付いている道を、トコトコと小さく歩いている時、その災害は発生しました。
「ぬほおおおおおっ、着火!」田舎気味な土地にある公園に置いてある、便所のような声。
 その、肥満体型を連想してしまうような野太い声に、山羊之山羊を含めた街を歩いている周辺の全ての生命体はしっかりと反応をしました。その声の主の生命体は、街の十字路の角にあるタバコ屋に陣取るように立っていました。
「着火、着火、着火!」とても耳障りな、壊れかけのラジオから出てくるような罵声。
 その生命体は、人間でいうところの胴体に相当する部位が卵のような球体で、それの天辺から長く太い首が伸びています。それらは全て肌色で、そんな首からは枝のように二本の腕が生えていました。腕と、その先にある手は首などと同色で、その形状は一般的な人間のそれと酷似しています。首の先端に付いている頭部と言える部位は、サッカーボールとほぼ同じ大きさの球体でることは、生命体から少し遠い位置でいまだ立ち尽くしている山羊之山羊の目からも確認できました。頭部にある部位や、そもそもの形状は一般的な五十代から六十代の男性の人間と酷似していますが、しかし頭髪には、その毛量に少しの貧困さがありました。また、卵のような球体の身体からは蛙のような脚が生え、それはまるで水分を十二分に持っているかのようなみずみずしさを常に持っていました。
「人ゴミが嫌いだあああああああああああああっ!!」
 生命体はタバコ屋のカウンターに向かって怒号を放つと、カウンターにある商品のライターを手に取りました。すかさずタバコ屋の店員が、「いやい、お客さん?」と言いながら生命体の持つライターに手を伸ばしましたが、その手のひらがライターの真上に来るタイミングで生命体がライターの火を付けてしまいました。
「おりゃ」カチッという乾いた音。
「え、え? ああっ、あああああああああああっ!!!」
 同時に、店員の鼓膜が裂けるような悲鳴が街の周辺を覆います。手のひらからまとわりつくように全身に広がっていった火はメラメラパチパチという弾ける音をたてながら店員を焼いていきます。店員は途端に立てなくなり、タバコ屋の中でのたうち回りながら赤い火に焼かれていきます。
「へえ、俺のを取ろうとするからだ」
 生命体が捨て台詞を言う頃には、店員のお金にすらなり得るほどの美しい肌色は黒くなり、その全体は大きなかりんとうのようになっていました。
 それから全体は店の中にある全てのライターのオイルを呑み尽くし、意気揚々と歩いて行きました。その満足げな背中が地平線の向こうへと消えるまで見ていた街の生命体らは、なぜか一日で摂取する必要があるカロリーを全て摂取し終えたような気分になって、カロリーを持った物を食べることに強い嫌悪を感じてしまいました。しかし山羊之山羊は、「ああ! 女の子に呼ばれているんだ!」と思い出しを行って走り出しました。
「行かなきゃ! 行かなきゃ! 行かなきゃぁぁっ!」女々しい声を出しながら、山羊之山羊は小汚い街の道を進みます。すると近くに居た他人がすかさず、「どうして、どこに、向かうのさ。どうして、どこに、向かうのさ」と言っていますが、山羊之山羊は完全無視をして進みます。
「タイ焼き、食ってけよー」他人は離れていく山羊之山羊の背中に高い声で言いますが、山羊之山羊が止まることなどありませんでした。
「ちくわ部なんて入るわけねーだろっ」山羊之山羊は、目まぐるしい日常に、ついに郵便局を感じていました。
 それでも山羊之山羊は進みました。
 山羊之山羊の、その愚かさを全面に出した顔や、声や、走り方には、道行く他人の目線を十二分に集めました。一生懸命さを笑うような人からはひどいほどに笑い者とされ、あの生命体と同じように地平線の向こう側へとたどり着く頃には、街からの一体となった笑い声は山羊之山羊の心に修復のかなわない傷を、そして優秀ダンボールに湿気の多い日のダンボールのような湿り気を与ました。
 山羊之山羊はケテケテケテケテという笑い声を背に走りました。教授という職で講義や面接をしている日々を長く続けた山羊之山羊にとっては、その長い走りはとても久しく、またとてもつらい運動でした。

 冷たいのか熱いのかすらよくわからない外の空気が、ぼくの乾燥した喉を荒々しく通って胃へと突き刺さる。リズミカルに呼吸をするたびに、倒れるのでないかという妄想が頭を支配して嫌になる。だんだんと血の味が口の中にしてきて、なんだかワクワクしてしまう。
 そんなふうに走って、女の子との待ち合わせである約束に間に合わせようとしていると、突然、「おいおい、あんたさんよ」というお婆さんの声らしい声体がした。
「んゆっ?」
 その突然の静止は、その、両足を瞬時にピタリと止めた静止は、山羊山山羊之山羊であるぼく自身が意図したものでなく、この科学世界では到底ありえないが、お婆さんがそういう魔法を使ったのではないかと思えてしまうほどに本当に、意識外からのものでだった。
「なんですか」
 ぼくはおとなしく立ち止まり、そして道の隅に体育座りで縮こまっているお婆さんに近づいた。
 そのお婆さんは、片手に水晶を持っていたんだ。
「なんなんなんなん、なんですかぁ?」ぼくはそうやって変にリズムをとってお婆さんに聞いてみた。するとお婆さんは、ぼくの顔や人としての形には一切の興味を示さなかったくせに、ぼくの声には餌を与えられた犬みたいに反応してきた。
「あんあんあんあん、あんただれぇ?」
「え」
 なんてこった! このババア、ぼくのをパクってきやがった!!
「なんだよ! お前!!」苛々が一気に頂点へと登りきったぼくは、そのまま怒りにまかせてお婆さんが持っていた水晶を奪い取り、それでお婆さんのおでこを殴りつけてやった。
 ゴンッという重い音。持ち上げた水晶には綺麗な赤色が、絵の具が付いてるみたいにべっとりと付着していた。
 お婆さんはというと、一度だけ殴ったにも関わらず、すぐにその場でバタンと倒れてしまった。そんな様子を見ていると、どうしても人間というものに対する脆さの認識が更に脆いものへと変わってしまう。人間は簡単に死んじゃうんだと言いながら、五度も自殺未遂をした、かつての愚かなあの助手を思い出してしまう。
「ふむ……」
 意外なところから少ししんみりとした雰囲気になってしまったぼくは、お婆さんが持っていた、今はぼくが奪ってしまっている、この水晶にとてもリアルな光景が写っていることを遅れて理解した。水晶の中にその光景の写真が浮かんでいるようで、ぼくはそんな光景をじっくりと見てやろうと思った。

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