うらがわ山羊と複雑の禁。

「あれだけ山羊山羊言ってはいますが、その設計者に山羊の動物らしい知識は全く無いんですよね。内蔵の構造とか、皆目見当もつかない」
 天空に居るデザイナは、最新式とは言い難いデバイスを、接吻と称されてしまうほどの距離まで近づけて言いました。それは唯一のマトモかもしれませんが、私と呼ばれる存在はそれを頭へとあてがうことに、出入り口が一体となった廊下で決断しました。
「貴女には私の言っていることがわからないだろう? でも私にも、貴女の言っていることがわからないんだよ」
 それは至極の言葉でした。

————

「意味わかんないよな。この前なんて、サバ同士がヤるAV見ながらバトル漫画描いてたんだぜ?」学ランを着た普通の人間の雄は言いました。
 それを横で聞いたセーラー服を着ている女は、「本当?」と隣に居る山羊に怪訝な顔で訊ねました。
 首から下は普通の人間な山羊は表情を動かさずに答えます。「セックス音声を作業用BGMとして使用するという、新しい試みだぞ」ちなみに山羊も学ランを着ています。
「バカみてぇだ」
 男はそれだけ言い捨てると、吸いかけの煙草を再び口に持っていきました。
 すると女は、「ああそうだった。私は散弾銃で」と言います。語尾のほうは溶けて消えてしまって、新作を楽しむ男や次回作のことで頭がいっぱいな山羊には聞こえませんでした。
「くそぉ……推しカプの恋愛シーンを見ていても、小説のアイデアが浮かんでくる……」山羊は手すりに両手を置いて、夕焼けの少し下に目をやりながら呟きます。「もうノーマルを落とす脳が無いんだ……私はまみれてしまった」
 女ないつの間にか居なくなっていて、少し離れた隣には夕焼けを真っ直ぐ見つめながら煙草を吸う男が居るだけでした。
「もうyoutubeでお気に入りの動画を聴きながらじゃないと、こんなハチャメチャなものを投げつけるなんて……もう、もうう」
「気持ち悪」男が山羊の横顔に向かって言いました。
「あへあへ」山羊は手すりを舐め始めました。中途半端に開いた山羊の口からご自慢の長く赤い舌をベロンと出して、ぺろぺろ、ぺろぺろぺろぺろぺろぺろと、鉄で出来ている手すりが唾液でテカテカになるまで、流れる唾液が手すりの先の崖の下に滴り落ちるまで、ぺろぺろ、ぺろぺろ、と無表情で舐めました。それはやりたくもない義務を無理やり実行している、または意識外からの圧力によって実行しているような感覚で、その無表情山羊フェイスには強要された手すり舐めに対する憎悪か感じられ、横から見ている男は静電気でしびれたような感覚に触れていました。
「あーあ、突発的な自殺願望かな。それも廃棄予定は無い」男はうつむいて、口の煙草を手すりの向こう側の深い崖に吐き捨てました。まだまだ長さがあった白い悪魔の棒は、その先端に橙色を宿しながら宙を落ち、谷底に広がる暗黒へと消えていきました。
「あばよ、正常」男は落ちて見えなくなった煙草に言います。その顔は黄昏時のようなものでした。
「それは幸福か?」男の動作を横目で見ていた山羊はついに手すりから舌を離し、年の離れた兄のような風格をその山羊としての毛並みに漂わせて言いました。
「いいや。それは状況によるよ」男は手すりを両手でギュギュッと握りました。「……今は、まぁ、健在だ」その目にはらしっかりとした死相が見えていました。
 山羊は真剣な様子で男の方に体を向けました。
「私の黒い玉とは違う」
「え?」男は横を見て山羊と目を合わせました。
「生を司る輪に入ったとして、君は貴方が保てるのか」
「どうだろう……」男は山羊とは目を離さずに、ただ手すりを握る両手に力を入れました。「可能性の数値は一桁であった」その貫禄は、とても静かな真のエンディングを見据えていました。
「気分は変わる」山羊が言うと男は、「だがっ!」と山羊の言葉を拒絶しました。体中に張り付いた蛆虫を振り払うような、シッシッ、と手でやっているような声でした。
 しかし山羊は負けません。
「変わる」得意な貫禄出しを十二分に使い、男に歩み寄ります。一歩一歩を確実に、全てに怯えている小動物か、あるいは壮大な背景があるトラウマを持った生存者に近寄るように、優しい雰囲気を黒い玉の中に作り、靴を脱ぎだした男に近づきました。
「やめろよぉ!」
 しかし男の決意も強い強度を持っていました。男は情けなく「やめろ、やめろ、やめやめやめろ」と呟きながら手すりを乗り越えてしまいました。
「なぁ、小さい頃に散々いじめられてきたけど、別に『他人の痛み』とやらがわかるような人間にはならなかったよ」
 男は遥か下の暗闇に向かって、誰かに語りかけるように言いました。
 そんな男に山羊は言います。「私の知っている君は、そんな、塩水塩多めみたいな顔はしないぜ?」
しかし男の顔に色は戻りませんでした。そしてうつむいたまま言います。
「いや、お前に見せている顔が私の全てじゃないんだよ」男はそう言うと、後ろで手すりを掴んでいた手を両方共離し、ふわりと飛び立つ感覚と共に崖へと落下していきました。
 山羊は「や、メェー!」と叫びながら駆け寄り、男の肩をつかもうとしますが、笑顔で落下していく男の肩に触れることはありませんでした。

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