所詮は山羊だから。

 部屋から出たとしても、その先は同様の素材で出来ていた。
 豆腐のような白濁に囲まれた廊下が左右に広がっている。山羊はそれに、躊躇なく足を踏み入れた。
 廊下の山羊が縦に並べば、六匹ほどは入れるほどの幅がある廊下。その床は部屋のそれよりもひんやりとしていた。突き刺すようなものではなく、染み込んでくるような冷たさだった。一定の間隔で棒状の蛍光灯が設置されている天井はそれなりに高い位置にあり、山羊のジャンプではまず届かない。また廊下はどちらにも長く、山羊の目でも先は見えなかった。
 山羊は、そんな廊下を四足歩行で静かに歩く。途中ですれ違う何人かの人間は、いずれも薄桃色の看護師用衣服に身を包み、頭には同色の三角巾。眼球が子供が描いた絵のようにぐちゃぐちゃな球体になっていることが特徴的ではあったが、山羊がそんな眼球を注視しても反応は無く、簡単なレポート用紙や摘出したばかりの臓器をステンレス製の正方形トレイに乗せて運んでいる。
「山羊が山羊として生まれたことに後悔を感じているのかって? はは、そんなこと、あるわけがないじゃないか。確かに山羊は知的で、人間と同等の思考能力を持っているけれど、だからって自身の存在に対しての嫌悪を抱く山羊は確認されていないさ。この地球上で自殺を実行する生命体は人間だけ。それは山羊が人間社会に侵入し、すっかり溶け込んだ現代でも変わらないさ」
 適度に白い床を舐めながら歩く山羊は、数日前に病室の中で見た映像と音声を思い出す。それは残酷な自称山羊研究家のふざけた議論。現代社会に生きる山羊は、見た目以外では人間と大差がないというのが現実だ。
「山羊、なんだよねえ……」
 たちまち、山羊の脳内に男性の低い声が反響する。それでも山羊は歩みを止めないが、自身の脳が桃色から黄緑色に変化していくのを感じ、体の中には濁流のような吐き気が上ってきていた。視界が華やかな色どりで埋まる。激しいピンクやワインのような赤色は山羊の眼球を刺激する。まるで焼かれているようだった。すると不意に、後ろから誰かに睨まれているような気がして勢いよく振り返るが、結局誰も居なかった。前方を向きなおすと、先の白い壁はとっくに植物のような緑色になり、でたらめなピアノの演奏までもが耳の奥から聞こえてくる。天井から降り注ぐ光が、優しい黄色の金平糖の形を成して降ってくる。
「そうそう! やっぱり、山羊、なんだあ」今度は女性の声だった。ピアノの演奏が声に変化していた。無臭が植物の臭いに変わり、草木の生臭さが鼻孔を刺激する。山羊は自身の脳がミミズの集合体だと錯覚し始める。涙ではなく小さなミミズが頬を流れている。山羊は歩行を止め、下を見た。床に付いている二本の前足の間には、水たまりのようにミミズたちのたまりができていた。ミミズは皮下脂肪のような黄色い粘着性の高い液体を纏っていて、床に付着していても、ぬめりぬめりと動いている。
 山羊は自分の舌がただのゴムになったことを理解した。
「ああっ! 山羊だ、山羊だ!」その前方から聞こえてきた声に反応した山羊は、弾かれるように前を向いた。すでに廊下は煤まみれになっていて、それは山羊自身の視界にすら及んでいた。そんな中で山羊は必至に、全身の汗が流れ出るほどに必死に前を見ると、小さく見えたのは煤と同じくらいの黒色の人型だった。
「おお、囲め囲めえ!」
 人型は複数の人間の声を駆使しながら山羊に近づく。人型はまるで影のようで、容姿や衣服などは存在していなかった。品定めをしている通り魔と同等の速度で山羊に歩み寄り、ついに山羊の目の前にまでたどり着く。山羊はそんな人型の顔の部分を見上げていた。汗は出尽くしていたので、ミミズが汗として流れていた。人型は何も言わず、山羊のミミズにまみれた顔面を見下ろしている。山羊はその人型が、本当に煤で出来ていることを理解した。ぼんやりと人型の顔を見ていると、不意に人型は両手を動かす。床に対して平行になるようにすると、両腕の長さを伸ばし始めた。しかしそれは、腕自体が伸びたというよりは、辺りに漂っている煤を集め、腕の長さを延長しているように山羊には見えた。山羊がそんな思考をしているうちにも人型の腕は伸びていき、山羊の周りを一周する。やがて右手は左肩を掴み、逆に左手は右の肩を掴んだ。それは伸びた腕が円を描き、その中に山羊が完全に閉じ込められてしまったことを表していた。
「しょせん自分は、名も無き山羊だから……」
 燃え上がるように視界の全てが赤色になっていく。山羊は、居酒屋で酔い潰れるように全てを諦めた。口に広がる少しの苦味とぬるま湯のような温かさに包まれ、そっと目を閉じた。
 しかし、山羊が心地の良い睡眠の世界に沈むことはなかった。ちょうどそれに落ちていこうとした瞬間に、まるで両肩を強く叩かれたような衝撃が体を走っていき、反射的に両目の瞼を限界にまで開いていた。
 強制的に覚醒状態にさせられた山羊の目の前に広がっていたのは、白い正方形の部屋だった。まるで豆腐のような白色の壁には不気味な人工を感じた。また山羊の正面の壁にだけは、棺桶のような長方形の扉があり、それだけは灰色だった。上を見上げると棒状の蛍光灯が光を室内に刺していた。
 山羊はすぐに、考えるよりも素早く、正面の扉を頭駆け込み突きで吹き飛ばした。

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