山羊は料理ができないのです。

 私は目覚めると、すぐに掛け布団から這い出て、近くに置いてある時計の針を注視しました。
 七時という、まだ朝といえる時間帯であることを認識した私は安堵の息を漏らした後に、それでも収まっていない緊張感を胸に感じながら、古ぼけた襖を開け放ちました。その先にはもう台所が広がっていて、窓からは朝らしい光が降り注いでいました。しかし私の心情は、そんな朝から感じる何かに浸る程の余裕はありませんでした。目ヤニの付いた目をどうすることなく、一直線に、しかし寝起きという状況のせいでとてもノソノソとした足取りで、ステンレス製の流し台に行き、流し台の蛇口をひねりました。勢いよく出てきた水は、学校の理科室の、あの水圧が強い水道を思い出します。
 私は水圧が強い水に、自らの手をかざしました。かざすといっても、例えばキャンプファイヤーで、火の温かさを感じるためにやるようなものではなく、水道から出る水の柱を断ち切るように、手の平に水が当たるようにかざしました。
 水圧が強いので、当然手の平に水が当たると少し痛いです。しかしそんなことに一々構ってもいられないので、私は無表情で手を洗いました。手洗いでも、毎朝やっていると決まった洗い方というものが自然と身に付きます。私は今日もそのやり方で手を洗うと、すぐに水道の蛇口をひねって水を止めました。
 私が次にやることは朝食を作ることです。それも私一人のものではなく、まだ寝ているお母さんのものも含め、二人前の朝食です。
 私とお母さんの間の決まりとして、朝は必ず二切れのパンと簡単なサラダを作ります。朝食としては貧相ですが、私はまだ幼いので、お母さんはこれで許してくれています。
 私は流し台の横にある、冷蔵庫の両開きの扉を開けました。中から出てくる冷気が肌を撫でます。オレンジ色の光が灯った冷蔵庫の中は、一斤の半分ほどが無くなった食パンが一袋と、一リットルパックのコーヒーが十本ありました。私はたくさんあるコーヒーに対して、邪魔だな、と思いながらも、決してそれを口には出さずに食パンの袋を取り出しました。ちゃんと確認すると、中はやはり、半分ほどが無くなっていました。
 冷蔵庫を閉じると、私は食器棚からお皿を二枚取り出し、台所の中央にあるテーブルにお皿を置きました。次にパンの袋を止めているプラスチックの留め具、バッグ・クロージャーを取り外しました。ちなみにこの留め具の名前が「バッグ・クロージャー」であるということは、半年ほど前、自慢げに語るお母さんの口から聞きました。
 私は開けた食パンの袋に片手を入れ、食パンを四切れ取り出しました。私の分と、お母さんの分で四切れです。私は食パンを二枚のお皿に二枚ずつ置くと、そのお皿と食パンの袋を放置して、食器棚に向かいました。
 次はサラダを作ります。私は食器棚から大きめのお皿を二枚と包丁、祖に加えてまな板も取り出し、それらを流し台に付いているスペースに置きました。次に冷蔵庫の下の方にある野菜室からレタスと人参を取り出し、それもスペースに置きました。
 スペースはそれだけでいっぱいになってしまいました。もしもこのゴチャゴチャとした醜態がお母さんの目に入ったらと考えるだけで、私の体は芯から恐怖の感情をに包まれてしまいます。
 体の震えを無理やり押さえながら、私はレタスに手を伸ばしました。そしてレタスをちぎりました。大した力を掛けずとも、バリバリバリと音を立ててちぎれるレタスを見ると、私は自分がレタスではなく人間に生まれてよかったなと強く思います。レタスとして生まれ、こんなふうにいとも簡単にちぎられてしまう生涯なんて、絶対に嫌です。
 レタスをちぎった後は、人参です。人参は皮とヘタを切り取った後に千切りにしました。お母さんは細かい千切りが大好きなので、できるだけ一本一本を細かくなるように切っていくと、やがてまな板の隅に橙色の小山ができあがりました。
 ちぎっただけで放置していたレタスも千切りにしていきます。どれだけやっても慣れない連続作業をレタス相手にもやっていくと、私の指に強い熱とチクリとした痛みが走りました。私は反射的に顔を歪ませて、熱と痛みが走る左手の指を見ました。どうやら、包丁で切ってしまったようです。
 はぁ、と私はため息をつきました。しかしその行為は、手当をする道具が無く、どうしようかと途方に暮れた心情の表れでもなければ、手当自体が面倒くさいなと感じたことによる行為でもありませんでした。
 私は実は、普通の人より体内の血液の量が多いのです。これは生まれつきの体質で、体内の血液は常に普通の人の約二倍はあります。なのでちょっとした怪我でも流血が多く、怪我をする度に、その手当をするお母さんを困らせてしまいます。
 第一関節と第二関節の間、そのちょうど真ん中当たりにできた傷。そこからチロチロと流れる血液は、絵の具のように鮮やかな赤色をしていました。そんな患部を見ていると、顔をしかめたお母さんの顔が脳裏に浮かびます。怖くて怖くて、たまりません。
 私は血液がまな板や野菜に付着してしまう前に指を上げ、そのまま指を口の中に入れました。口内の温かさを指全体で感じながら、舌で傷口を撫でます。知り尽くした血液の味を舌で感じると、私は途端に安心感に包まれました。そのまま何をしなくても出てくる血液を味わい、やがて流血が止まると私は指を抜きました。指は私の唾液でヌメヌメしていたので、水圧の強い水道で洗い流しました。
 料理を再開します。やりかけのレタスの千切りを全て完了し、できたものと人参の千切りを混ぜ合わせました。緑色と橙色が混ざった千切りの塊は、私の紙のような食欲を容赦なく刺激し、お腹がぐぅと鳴りました。
 出来上がったサラダを私とお母さんの二つのお皿に取り分けます。盛り付けと言えるほどのことは私にはできませんが、それでも見た目が良くなるように努力しました。結果的にできたのは、お皿の中央に集約され、小山となった緑と橙の千切りの塊でした。
 盛り付けも完了したサラダを、私はテーブルに並べて置きました。料理をする前に用意した食パンのお皿も、その近くに添えたところで、私の朝の料理は終了しました。
 後は、寝室に居るお母さんを起こすだけです。私は自分の寝室の横にある、お母さんの寝室の襖を開けました。
「お母さん。朝だよ」

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