棘と執筆家。

 一人の書斎で頭を抱える執筆家は、「今日ほど書けなかった日は無い……」と机を睨んで悩みを吐き出す。しかし、ちょうど二十四時間前も同様の言葉を発しており、三日前に取り出した原稿用紙には何も書かれていなかった。そして二秒後には、机の隅に放置された氷とウイスキーが入ったグラスの、溶け始めた氷が奏でるカランという音に驚いてしまう。
「ああ驚いた……」
 執筆家のそれは、いわゆるトリップと呼ぶことができるものだった。体にかかっているはずの重力が消え、体内がじっとりと熱くなる。まるで自分が素晴らしい能力の持ち主にでもなったかのような気概になり、強気になる。横綱も片手で倒せるし、どんな苦痛にも笑顔で耐えられる。空すらも飛べると錯覚しだす。体中の鳥肌が全て立ち上がり、まるで棘のように覆う。執筆家はすでに書斎を出ていた。執筆家はすでに全裸だった。眼前に広がるのは草原で、現実の嫌な臭いやガスは存在していない。まるで綿あめのようだと例えてみるが、そんなものはクソだ、という反論が脳から降りてくる。とろけている。シワが多い脳みそほど口うるさく、どうしようもない。しかし利口なので、しかたがない。
「飲酒をした祭にできあがる体の変化は、相当な鍛錬と勇気がないと取り除けない。まるで理解者を求めるような口ぶりで、医者たちは科学的な根拠を述べるけれど、それのどれもが嘘であり、虚言癖とでも言うべき代物だ!」
 執筆家は両手を大きく広げ、そして夜空に叫ぶ。「まるでミスがないじゃないか!」
「んん? アレはガンナーじゃないかっ! いいやガナーだったか? まあ良い」肺が高速で上下運動を繰り返す。白い息が湾曲した口から漏れ出す。「あれはお酒を呑むことができる、唯一のレスポンスだ」

 いま現在の私の頭からは、入念に練られた硬く白いヒモが垂れている。右こめかみを通り、本来なら右の口角がある位置までの長さのそれをひっぱると、それまでは真っ黒だった顔面に顔が浮かび上がる。私の一日のスタートはそれから始まる。
 小さな夢の中で、私は女の人が机の上でショートケーキを食べている映像を見ていた。近所の甘党の代表格を務めているその女は黄緑色のシャツを着ていたが、サイズが少し小さいのか着ているというよりは体にぴたりと張り付いているように見え、それのせいで丸みを帯びた豊満な胸や、その下に続く腹部とくびれの素晴らしい曲線が全て浮き出ていた。
「おおおおっ! 良い身体をしているね!」ノートの端に張り付けられた付箋のような声。
 女の下半身は薄い茶色のロングスカート、机の黄色を踏みしめている靴は黒いパンプス。そんな出で立ちで小皿を持ち、右手のフォークで三角形の糖分を静かに食べる。どうやら食器が唇に接触するのをひどく嫌う性格らしく、フォークの先に突き刺したケーキの欠片を吸い込むようにしていた。
 エレベーターの乳白色の扉の横にある、プラスチックのような質感の回数指定スイッチを押した瞬間に、私の体はエレベーターの中に居た。そして近所の人間は皆が真剣で、顔面が耳の辺りで右側に、九十度に曲がっている……。
「日常を生活していたら、急に地下深くにまで落ちてみたくなったことが、皆さまにもどうせあるでしょう?」
 あのD・B・サモは、階段を駆け上がるか下がる瞬間にだけ愉快な体の使い方をする。まるでスライムが階段を下りるような滑らかさで、目にした人間は例外なく感動する。サモが飲むコーヒーは常に無糖で、えんぴつの先を尖らす際に自動削り器は使わない。交通安全を守ることを大事に思っているし、朝五時には就寝している。
「まるで戦争のようですね。それも、子供同士がオモチャで行うアレによく似ている。どこまでも生産性の無い子供の戦争には、未来への応援歌が隠されていたりします」白い髪を丁寧に扱っている畳屋の店員は静かにお茶を飲み干した。
 桃色で塗装されている信号機を見上げると、ベッドのシーツのような質感の空にいつでもだれかの歯列が見えていて、太陽ですらシャッターを下ろしていた。いちいち鳴るコショウの音がとてもうるさかったので、私は朝食のトーストに付属するココアの瓶を投げ捨てた……。
「肉を食べると、その肉の悲鳴が聞こえてくるんだ。例えば牛肉を食べれば牛の悲鳴が聞こえてくるし、豚肉を食べれば豚の悲鳴だ」私は喫茶店にいたはずだった……。いいや、おそらくここは喫茶店だ! 店員が自分の詳しい素性が他人にばれないように、茶色いお盆で顔を隠しているのを見つけたから。
「だからあ……、試しに人間の肉を食べてみたらね、なんと人間の悲鳴が聞こえてきたんだ!」衝突する花畑。それから電線は、私の頭上で音を奏で始めた。「まるで寂しい音だな」
 私は二杯目の珈琲に舌つづみを打とうと思う……。今度も無糖で、絶対に白いマグカップに入れてもらうんだ。ゴミだらけの路上をしっかりと歩いていると、たくさんの人間とすれ違う。私は他人の服装や顔、髪型が気になるのであちこちをチラチラと見ている。通り過ぎていった美女を見て、私は彼女が死体になった姿を必死に想像する。体の筋肉はすでに消失しているので、手足はぐてんと適当に曲がっていて、目は虚ろ。口もだらしのない半開きで、そもそも首も、でたらめな方向に曲がっている。ただの肉塊になった美女を前に、それが最大の性癖である私の性器は膨張を始めていた。たまらずズボンを脱ぎ捨てると、一本の硬く熱い棒になっている性器が立ち上がっている。私は美女の衣服を脱がせ、両足を上げて股の中心の穴の味を楽しんだ……。
「大好きなあの子のことを想いながら、人体図鑑を読むとする……」
 私は三杯目の珈琲を注文した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?