〈祈りのエッセイ〉義母の臨終②
医師・H先生へのお礼の手紙
H先生、初めてお手紙をさしあげます。
ずっと以前ですが、私どもの義母が胃癌の手術と治療で、大変お世話になりました。当時、口ではお礼を申し上げましたが、こちらの気持ちを十分にお伝えできたとは思っていませんでした。この間ずっと気にかかっておりました。
先日、私が体調を崩し、患者として先生に診ていただきました。先生はまだ現役でいらっしゃったのでした。大きな病院で、大勢おられる医師の中で、先生の診察を受ける事になろうとは。
その病院にかかろうと決めたとき、私に期待があったかもしれませんが、本当にまだ先生はおられ、しかも私が診ていただく事になったのです。
診察室に入ると、先生は顔をこちらに向けられました。椅子を回して体ごと向けられたと思います。そしてニコリとされました。そのやわらかな笑顔だけで胃腸の患者は軽くなってしまうのではないでしょうか。
私は一瞬迷いました。
「二十六年以上前の事ですが、義母が胃癌で先生にお世話になりました」
そう口にしようかと思ったのです。
「改めてお礼申し上げます」
と。
けれど、私は何も言わず、ひとりの患者として診察を受けました。待合室にいる大勢の患者さんの事、昔の患者の事でなく今目の前にいる患者の事に集中しておられる先生の事、それらへの遠慮が出たのだと思います。
先生は当時と変わらずに優しく話を聞かれました。かつては手でカルテに書き込んでおられた記憶がありますが、今はパソコンに入力されています。その画面がやや斜めになっているので、患者である私も、打ち込まれていく文字を読む事ができます。
話を聞き、質問をし、その答えを打ち込んでいかれる速度は、失礼ながらゆっくりでした。患者を見ずに真横を向き、カタカタと手早く打ち込んでいく若い医師たちにはない「手作り感」がありました。
ああ、先生は変わっておられないなあと、診察室の扉を開けたときに感じた事を、ここでも感じる事ができました。養生のしかたも丁寧に教えてくださり、病院に来る前より元気になったような気持ちで家に帰りました。
H先生、この間は有難うございました。そして、長い事お礼を言わずにきた事をお詫びしたいと思います。
義母の事は覚えてはおられないと思います。たくさんの患者さんの一人です。当然の事と思います。けれど、私どもにとっては、H先生はただお一人の先生です。
義母は手術の後、経過が思わしくありませんでした。発見が遅かった事、転移があった事で、進行が速かったのです。胃癌の中でも見つかりにくく、治療が難しいものだとの説明も、妻と私は初めに受けました。けれど、見舞うたびに見せる苦痛の姿に、私たちは、正直葛藤したのです。良くなる兆(きざ)しが見られない姿に、他の方法はないかと探す気持ちが強まりました。
当時セカンドオピニオンという方法は、まだ一般的でなかったと思います。
ですから、「他の方法」というのは「転院」を意味したのです。H先生の力を疑うというのでなくても、形としてはそうなってしまうでしょう。しかし、回復を願う家族として必死だった私たちは、あの治療法、この病院を探して回りました。「藁(わら)にもすがる」姿そのものでした。そして、H先生にお願いし、転院させていただきました。
あのときの先生は、やっぱり優しかったです。最後までじっと話を聞かれました。そして「その治療法を私は知りませんが、そちらでよくなるといいですね。これまで苦しい思いをさせてしまってごめんなさい」というような事を言われたのでした。
それから数か月。義母は転院先で一時好転しました。私たちは期待しました。祈りました。このまま回復してほしいと。
しかし、十二月、上り道が急に下り坂となってしまいました。母の体は病む人そのものに変わってしまいました。その病院の医師は言いました、「もう少し早ければ良かった、残念ながらこの治療の効果が出るには遅かったです」と。
義母は家に帰りたがりました。最期の時が迫っている事が分かったのだと思います。
妻と私はH先生を訪ねました。容態を説明し、「もう一度先生にお願いできるでしょうか」と、おずおず伺いました。こちらは最後の居場所と思っていますが、不義理の患者です、断られる事をなかば覚悟していました。
ところがH先生、先生はにこやかに、
「ええ、いいですよ」
と、すぐにお答えになったのです。
その日はクリスマスイブでした。
義母は一週間、ナースステーション脇の個室で過ごしました。大晦日の深夜に亡くなるまで、手厚い看護を受けながら、心穏やかな時間を過ごせたのでした。家族皆と。
H先生、このお礼をようやくできました。
●読んでくださり、感謝します!
たくさんの医師と出会ってきました。少数ですが、「心が通じる」「つらさをわかってもらえる」医師と出会えた幸いがあります。