中国共産党が最も恐れるもの
中国経済の終わりの始まり
中国経済は瀕死の状態だと、多くの専門家が指摘している。
地方政府の財政破綻、莫大な公共工事による国家財政への圧迫、アメリカをはじめとするデカップリングの流sれ、食糧輸入への懸念、若年層の失業率、インフレ率の低下。
少し羅列しただけでもこれだけの要素がある。
中国のアキレス腱は、共産主義をベースにした専制政治体制を維持しつつ、資本主義経済を計画経済に取り込んで行くことで、国家ぐるみで巨大な経済圏を作ることが可能な反面、その規模の大きさが裏目に出て、一度歯車が狂い始めるとその反動は計り知れない規模になってしまうことだろう。
分けても、地方経済における信用収縮と財政破綻、ゼロコロナ政策による人流制限が、国内経済の消費を一気に冷え込ませてしまうと同時に、3,000万社とも言われる中小零細企業の活動が止まってしまう。これら、中国経済の屋台骨を支える企業群が止まることは、そのまま国民生活の停滞を意味する。
そもそも、中国が国内消費と国内に還流する人民元の原資としてきたのが、地方行政区のGDPの要ともなる不動産投資だった。中国政府は、上がり続ける不動産価格を背景に、国民の積極投資を促し、国内のインフラ整備や大規模な工場への投資を可能にし、地方銀行の信用創造の元手にしてきた。
そのような中国国内の動きに対して、日本のバブル崩壊のような警戒感を示す諸外国の経済アナリストの声はあったが、大半は膨大な人口、輸出入総額の大きさ、とても国内全てに行き渡ったとは言えないインフラ整備と中国全土への投資が内外から寄せられることで、経済成長はまだまだ続くと考えられてきた。
ところが、アメリカの対中政策の転換により先進国が中国への投資に及び腰になり始めた矢先、コロナ禍が追い打ちをかけることになり、グローバルサプライヤーの見直し、大規模な資本移動の制限、人流の制限等、中国経済にとっては多くの亀裂が生まれる要素が明らかになってきた。
更に追い打ちをかけたのが、ロシアのウクライナ侵攻だ。
専制政治体制の国家は、互いに牽制し合いつつ、資本主義国家とのパワーバランスの中にあったのだが、ソヴィエト崩壊以後、社会主義国家、共産主義国家の政治体制では人類理想の社会の実現は不可能であることが明確になってしまった。国家が国民と経済活動と軍事の全てをコントロールすることは不可能なのだ。
社会主義や共産主義の最も間違っているのは、人心をも国家がコントロールするという考え方だ。国家の指導体制に国民を隷属させるためには、厳しい監視体制を敷くしかない。国民一人一人の思想や行動まで国家が制限することは、甚だしい人権蹂躙であり、あってはならないことだ。
巨大な経済規模を背景にしている間は、世界中もその経済力を利用することができただろうが、そもそも、専制政治体制そのものが人類の敵であることは分かりきった話なので、国家が経済力や軍事力を使って他国に影響力を及ぼそうとすれば、強烈な軋轢となり、世界は一気に抵抗感を強くする。
中国はチベットを飲み込みウイグルを飲み込み太平洋上でも南沙諸島をはじめ、他国の領土領海に寝食している。アフリカ諸国では理不尽な条件で港湾使用権を強奪し、軍事港化を進めている。こんなことが許される筈もなく、中国共産党が持つ覇権主義、正確には漢民族が持つ中華思想による世界覇権の計画に、多くの国が警告を発している。それが、世界中で起きている中国離れの動きだ。
中国は世界に利用されている
swissinfo社のAbdelhafidh Abdeleli記者は、このような中国の覇権主義に同調する途上国の多くが、中国と同じ覇権主義で経済的に中国に依存している為だと分析する。
世界における中国のプレゼンスが維持されている背景には、中国と同じ専制主義で国家体制を維持している途上国の影響が非常に大きい。国連では国家規模に関係なく、各国が1票投じる権利を有する。
中国はこれらの国のトップを懐柔し経済支援の名目で金に物を言わせて途上国を従わせているに過ぎない。そして、無理やり金を貸し付けることで担保となる港湾使用権や地下資源の採掘権を得ている。つまり、やり方は日本のヤクザと同じだ。それがまかり通っていることも問題だが、そんな中国を世界の工場として利用してきた先進国の現実もある。
言い換えれば、先進国は自分達の手は汚さないが、中国がやることを利用して、中国を経由して世界の資源なりを得てきた歴史があるのも事実だ。しかしそれも、中国のプレゼンスを高める要因だったかと問われれば、実はそうではない。
世界は経済によってそのバランスを保っているが、そこに軍事力や政治力が介入し、イデオロギーを押し付けたり、各国政府の体制維持を画策するとなると話は違ってくる。
確かにアメリカは過去、中東やアフリカ諸国や様々な途上国政府において軍事支援等を行ってきた歴史はあるが、それは自由主義陣営の拡充が前提になっている。裏を返せば人命や財産を人質にとる専制主義で国家の統治は出来ないと考えているからだ。
経済が疲弊することで、世界から孤立しつつある中国が最も恐れるもの。それは一体、なんだろう?
究極的に、それは人心を掌握するものだ。
中国人は抑圧される政治体制に慣れっこになっている。政治体制に文句を言わない。言えばエライ目に遭うし、それが当たり前だと思っている。人の心に自由は存在しないし、存在してはいけないと思っている。これは国家と国民が相互に依存していることの表れではないだろうか?
自由主義は思想信条の自由もあれば表現の自由もある。経済的にも、努力したり知恵を出せば、法律の範囲内であれば何をやっても自由だ。言葉は悪いが、金持ちになる自由も貧乏になる自由もある。
ところが、共産主義や社会主義は、国家が全てを統制するため、自分達の生殺与奪の権は国家が握っている。気に入らないからと言って政府を転覆することも難しい。だから中国共産党は国家資本主義によって、国全体を豊かにすることで国民を黙らせ、自由が無い代わりに仕事を与え外国から富を得て国民に分配している。
猛烈な監視社会によって国家に逆らう者を監視し、国家に逆らう者全てを反逆者と位置付けている。
それが実に100年近くにわたって行われてきたことで、中国人は自由とは何か?を忘れている。中国は歴史上、覇権主義中心に同胞の殺し合いを行ってきたが、漢民族の中華思想を利用した共産主義体制に、今は落ち着いている。現代に生きる中国人は、それが当たり前になっているし、中国共産党が推し進める近隣国の同化政策は、そのまま漢民族の支配地域の拡大と同義だ。
絶対的な「裸の王様」習近平
言い換えれば、中国共産党は、国家が人心をも掌握し思想統制、情報統制をすることが統治だと思っているし、それが他国でも通用すると思っているのだ。
中華思想には明確に、漢民族が世界で最も優秀で、統治能力があると記載されている。
”中国の歴史においては、はじめは北の遊牧文化に対し、漢民族の農耕文化が優越であることを意味した。春秋戦国時代以後は、「詩経」や「韓非子」「呂氏春秋」などの古典にある「普天之下 漠非王土 率土之浜 莫非王臣」(天下のもの全て、帝王の領土で無いものはなく、国のはてまで、帝王の家来で無いものはいない)という言葉にあるように礼教文化の王道政治にもとづいて天子を頂点とする国家体制を最上とし、その徳が及んでいない状態であれば夷と称される。夷は道からはずれた禽獣(鳥やけだものを意味する)に等しいものとして東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼んだ[1]。この夷の基準は固定的なものではなく、天子の徳や礼が及び、文化の発展とともに移動する変動的な概念である。
中華とは、華(=文明)の中であり、文明圏を意味する儒教的価値観から発展した選民思想であり、その字義のことである。自らを華(=文明)と美称するにあたって、対比となる夷(=非文明)が華の外に必要となり、すべての非中華が彼らの思想的に夷(=蛮)とされた”
ー華夷思想(かいしそう)
中国人以外の人々にとって、こんな思想は到底受け入れられないし、中国人の振る舞いを見て、とてもではないが、世界で最も優秀な民族とは到底思えない。
その中国の歴史において、常に歴史を変革してきたもう一つの要素が、宗教だ。
仏教、儒教、道教が中国における三大宗教とされるが、この三大宗教に共通しているのが、絶対的存在の「神」の概念が無いこと。哲学であり、道徳であり、道である。それぞれを指導的に導いた役割の人物は存在し、またそれを説いた書物も存在するが、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などに共通する教祖、教主、創造主という概念が無い。つまり、善悪二元論が存在しない。
中国人や漢民族にとって「神」は皇帝ただ一人なのだ。日本の皇統と根本的に違うのが、この点だ。中国皇帝は欧米の王とも違う。しかし絶対権力の象徴であることに変わりなく、中国の皇帝は人の上にある存在と位置付けられる。だから、中国の権力者は皇帝という存在に憧れる。日本の皇統は万世一系の血の道であり日本国民統合の象徴であるが、中国の皇帝の場合、力でもぎ取るものなのだ。
習近平が憧れているのが、まさにこの人の上に立つ存在という考え方だ。だから、憲法を書き換えてまで習近平の指導という言葉を使いたがる。日本人からしたら、大したことを言ってるわけではないし、中国全体を統治しているとはお世辞にも言えない。習近平は中国共産党の党内政局に勝って、ライバルの粛清してるだけの独善的な権力者に過ぎない。社会主義国家、共産主義国家によくある、格差と差別の象徴に過ぎない。自分以外を粛清することで、自分以外を排除し、結局孤立して国家を衰退させるだけなのだが、その裸の王様をして人の上に立つ人とは言わない。
習近平の最も欠けている点は、党内政局「しか」知らないという世間の狭さだろう。彼は国際的な政治も知らなければ、内政すらも知らない。何故なら彼の周辺全てが党内政局の故なので、イエスマンが彼が喜ぶものしか見せようとしない。
中国国内の地方政府は共産党が最初に報告内容の「結果」を決め、地方政府がそれに合わせた数字をでっち上げる。日本人からしてみたらギャグのような話だが、事実だ。既にデフレ不況に突入し、地方政府はバブルが崩壊して経済活動そのものが破綻しているのに、未だ、年間のGDP成長率を5%と言ってる。これは結果が5%ではなく、最初から今年は5%と決めているだけの話だ。国際的な輸出入の動向などを調査している機関、企業は、数年前から中国の成長率はマイナス域に突入していると見ている。
習近平自身は、自らが大中国全土の全てを掌握している神の如き存在だと自負しているかもしれないが、外側から見れば、裸の王様状態だ。
その中国共産党が一党独裁体制を維持する上で習近平という絶対的存在が否定されることが最も危険なことだと考えている。
絶対的な存在者以外に、真理を説く者がいては困るのだ。
中国共産党が最も恐れるものが台頭する時代
文化大革命は、国民を共産党に従属させる為の手法として、徹底した監視社会と、人の心に影響を与える文化、芸術、宗教を徹底的に排除した。共産党綱領を宗教の教えにしたかったからだ。
中国、政府活動報告に「宗教の中国化」明記…チベット・ウイグルの締め付け継続
日本では終戦直後から物凄い勢いで新興宗教が生まれた。軍国主義で軍政の下にあった日本国民は、富国強兵の号令一下、国全体が戦争に向かっていた。それに利用されたのが皇室だった。天皇は神だったのだ。
GHQは皇室を日本国民統合の象徴と位置付けることで、国民の反乱を抑え込むことに成功したが、一方で内心の自由が担保された日本では、壊滅状態にあった日本を再興する為に依って立つものが必要だった。その国民感情を巧みに利用したのが、新興宗教だった。敗戦の痛みは国民の感情を打ち砕くに十分だったが、同時に今まで神だと思っていた天皇の代わりになる教祖サマがあちこちで生まれることで、一気に精神の拠り所をそちらに求めたのだ。
今の中国は高度成長期の日本に酷似している。経済的にはバブル崩壊直前の状況だが、国民感情は高度成長期のそれではないだろうか?
共産党は習近平を礼賛することで、自分たちの立ち位置、国民を抑え込み特権階級として維持することに没頭しているが、他の大多数の国民は果たしてそう思っているだろうか?
経済大国を目指している筈の中国は、新しいシステムを生み出そうとした民業を圧迫し、実質的な国有化を進め、共同富裕のため実質的に企業収益を国が強制的に召し上げる。
中国共産党にしてみれば、国民が豊かであることで国内世論を鎮静化させることが可能だと経済成長の過程で学んだのだろう。これは日本でも同様だ。だからこそ、国民の1割にあたる中国共産党員が徹底した国民監視国家を作ったとしても、豊かなのだからそれに異議を唱える人はいない。
一方、国家統治の要となる経済が疲弊してきた時、国民はその不満をそのまま中国共産党に向けることになる。
そこ国内世論の反発を回避するための、台湾統一問題であり、一帯一路政策であり、新興国への進出だ。このやり方は、ソヴィエト連邦のやり方そのままと言える。
共産主義国家の常で、国内に猛烈な階級社会と格差社会を生み出す。仮に経済が疲弊したなら、その責任を全て外圧に置く。それが簡単だからだ。
日本国内でもそうだろう。マイノリティは社会主義、共産主義に傾倒しがちだが、彼らは抑圧された可哀想な自分たちを演出し、全ての責任を外圧に置いている。繰り返すがその短絡的な思考とやり方は、考えなくていい。簡単なのだ。
その単純な思考回路に、「責任は共産党にあるのではないか?習近平にあるのではないか?他にもっと凄い指導者がいるんじゃないか?」という疑問が生まれ、その解決策を打ち出す指導者が現れたらどうなるだろう?
それは宗教以外にない。
その答えを知ってるからこそ、中国共産党は宗教ですら共産党綱領で統治しようとする。形而上のものを形而下のもので統治しようとする不条理を通そうとしている。
それがチベットの仏教への弾圧であり、ウイグルでのイスラム教の弾圧であり、南部地域のキリスト教徒への弾圧だ。アフリカでも同じことをやろうとして、労働者から猛烈な反発を喰らっている。
戦前、戦中の日本において、国家が宗教を締め付ける政策は、より反発を生み出すだけの結果しか生まなかった。今の中国は、その二の舞をやっている。
またそれは社会主義国家、共産主義国家の終わりの始まりの様を見せられているとも言える。
ウイグルにおける「再教育」と称するウイグル人民の弾圧の根底には、宗教に対する強烈な恐れがあると見た方がいい。中央アジアで中国共産党が何をやってきたか?があからさまになればなるほど、それは宗教弾圧に他ならないという事実の証明でしかない。
徳で国を治めるのではなく、中国共産党内部の政局に勝っただけの習近平は、既にその指導力の無さを力で人民を抑え込むことしかできない。
中国国民が知らない自由と平等が心の自由から生まれると知った時、中国国民はそれを宗教に求めるしかなくなってくる。
それが、習近平と中国共産党が最も畏怖する相手なのだ。