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言葉と寄り添う歌

言葉の質量

広沢タダシさんと矢野まきさんのお話の時間。僕はこの素敵な空間をコーディネートさせていただいた。僕はこの日のことを「世界が言葉を手にした日」と名付けた。

電化製品の説明書に書かれている「言葉」と広沢タダシが指す「言葉」は違う。ニュースキャスターが原稿を読んでいる「言葉」と矢野まきが指す「言葉」は違う。二人が指し示す「言葉」は、僕たちが考えている「言葉」とは別のレイヤーにある。だからこそ、二人は言葉の持つ可能性をよく知っているし、実際にそれを使って世界を清らかに浄化させ、美しく塗り替えることができる。

一人ひとりの発する「言葉」には、その人の生まれてきてから今までの全てが詰まっている。言葉たちは、辞書の中では収まりきらない意味を抱えている。つまるところ、人の数だけ言葉には意味がある。

言葉の力。「言葉」の中に感情、光景、手触り、匂い、記憶……あらゆるものをぎゅっと詰め込んで、独特の輝きに磨き上げていく。その質量によって、威力は変動する。二人の歌に心が動かされる理由はそこにある。


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移ろいゆく花

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嶋津
能楽師の世阿弥は『風姿花伝』という書物の中で、年齢や経験によって〝花〟(輝き)の在り方は異なるという風に表現しています。「時分の花」や「真の花」などの表現を用いて、その時々に移ろいゆく優美な輝きを論理的に解説しています。

デビューした頃には、デビューした時の〝花〟が。10年経った時は、10年経った時の花が。50年経った時には、50年経った時の花が。それらは、それぞれに異なる輝きがあるはずで。粗削りな輝き、洗練された輝き、熟練された輝き、枯れゆく輝き、と様々に〝花〟は移ろいます。

広沢タダシさんは来年デビュー20年を迎え、矢野まきさんは昨年デビュー20年を迎えました。この20年を振り返り、お二人のその時々の〝花〟とはどのようなものだったかお聞かせください。

広沢
今もそうなのですが、特にデビュー当時は付き合いが苦手でした。感情を表現することが得意ではなく、だからこそ「歌」に辿り着いたのだと思いますが。当時の歌詞を見ていると「それを歌って誰が喜ぶんだ」という部分が目立ちます。「どうせオレの言っていることはわからないだろう」と思って歌っていたような気がします。

そういう意味で、20代前半は尖りがありました。その時の楽曲を聴いてみると、幼いし、拙いのだけど、それはそれで「かわいいな」と感じます。理屈ではない〝自信〟のようなものがあふれていて。これはもう「あの頃じゃないと書けないだろうな」って。サウンドにしても今聴くと「ここでそのコード要らないよね」と思ってしまう。それをわからずにやっている感じがいいですよね。20年経つと別人のように感じます。

矢野
それは強く共感します。私もその通りだなと思って。今回ベストアルバムを制作する中で旧譜を聴き漁っていたんですよ。改めて「尖っていたな」という印象を抱きました。

今でも心が弱いのは変わらないのですが、それに輪をかけて若い頃というのは右も左もわからなくて。生きていれば誰しもトラブルは避けられないのだけれど、そこに過敏に反応していました。内心、「みんな敵」という感じで怖がっていたのかも。

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その尖っている感じが歌にも顕著に出ていたし、いろんな意味で粗削りでした。その時の歌は、当然今は歌えないし、それだけ「歌に染まっている」ということでもあるのですが。今は達観していて、その時の感じも全てひっくるめて愛おしいですね。最近になってようやくそう思えるようになりました。

嶋津
怖さや迷いも含めて愛おしいと。

矢野
その時の自分の想いもそうですが、制作においても湯水のようにアイデアが浮かぶんですよ。どこまでも、どこまでもアイデアが出てきて、歌を構築していくということがいかに楽しい時間だったか。そのことを鮮明に記憶しています。

その時期を経て、年輪のように心が育ち、それに伴って歌も育ち。この20年の間にいろいろな経験や出会いを重ねていき、また今は「今にしか歌えない歌」というのが確実にあるから。自分で歌いながら「歌が育っていく光景」というのを知ることもできる。それは心が躍る体験で。




空っぽ

嶋津
「湯水のようにアイデアが出て」という表現をされていましたが、楽曲づくりも経験を重ねる毎に変わっていくものなのでしょうか?

広沢
経験に伴って知識は増えていくし、「どのようにすれば曲が書けるか」という研究も深めていきます。それによって「曲づくりのメソッド」というものが確立されたのかと言えば、そのようなことは一切なく。明確な「曲のつくり方」というのは未だにありません。だから、意識的に常に自分自身に刺激を与えるような環境に置くということは工夫しています。

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嶋津
内側からあふれ出るというよりも、外側からの刺激によって出てくるイメージですね。

広沢
インプットがないと何も出てこないですからね。

矢野
制作で出して、ライブで出して、ということを繰り返しているとやがて内側が空っぽになっていくんです。だから、どこかでインプットをしていろいろな情報を自分の中に吸収していかなくちゃいけない。映画を観たり、本を読んだり、人と会って話をしたり。そこから泣いたり、笑ったり、怒ったり……それは、日常で起きた些細な出来事でもいい。ただ、〝空っぽの状態〟というのはすごく過敏になっているんですよ。

あらゆるところにアンテナが張り巡らされていて、感じやすくなっている。少し平地でつまずいたというだけで「私、何やってるんだろう?」と重たく受け止めることにもなります。その感情をすくい上げて、また「書く」という作業を重ねていく。その繰り返しだと思います。

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心に余裕がある時は「そういうこともあるよね」と思えるのですが、そうなれない時もある。言葉にできない想いをうわぁぁぁぁと書く。生きている中で、人から心ないことをされたりすることもありますよね。そういうことに対して、「目には目を」ということではなくて、受け止めたものをぶつけるように言葉に落とし込んでいく。自分の心の内をしっかりと記しておく。そういうことは大事だと思っています。「書く」がなければ作品になりません。

嶋津
そこで発火したエネルギーを言葉で残しておく。それが制作の種火となる。
広沢さんはいかがでしょう?




「しない」を選択する

広沢
サウンドの面で言うと、Pro Toolsという世界標準で使用されているデジタルのレコーダーがあります。その機材を20年使用しているのですが、最近それを「やめてみよう」と思った。PCで制作することにマンネリを感じてしまっていて、「これをやめれば違うものがつくれるんじゃないか」と。使っている楽器を変えてみたり、意識的にそういった刺激を与えています。

嶋津
実験的な意味も含めて「どういうものができるんだろう?」と。

広沢
極端に機能が減るんですね。制限がある中でなら、違うものがつくれるんじゃないだろうかって。

矢野
足し算って意外と簡単で。実は、引き算の方が本当に難しくて。削って、削って、極限まで削ぎ落とされた中で残ったものこそ、実は一番届けるべき部分だったりするから。普段レコーディングをしていても。「もっと豪華に」という感じで、足そう足そうとしちゃうんだよね。それが簡単にできる世の中になったから。

原点回帰じゃないけれど、デジタルじゃなかったレコーディングの制作現場のことを思い出したり、最低限アコースティックの中でレコーディングをしてみたり。そういうことをやってみたいですね。私も、「いかに引き算をするか」ということに意識を置いていますね。

嶋津
重ねていくと豪華になる部分と、ある種それはごまかしとしても働く。シンプルになるほど、身体的な自分らしさ、アーティストらしさが表層に現れてくる。とても興味深いお話です。




言葉の密度

嶋津
例えば「こわい」という歌詞があった時に、お二人の「こわい」という言葉は密度が高い。それは歌詞や曲の力もありますが、身体的な〝何か〟が高まっているような気がしていて。

ここに大きなヒントがあるのではないかと思ったんですね。作詞作曲ではない領域───表現において「言葉に込める力」というのはお考えがありますか?

広沢
言葉に抑揚がありますよね。「こわい」という言葉にも音程があって。「こ」「わい」なのか「こわ」「い」なのか。アクセントの位置によって響きが変わる。同時に発声してしまうと、日本語に聴こえなかったり。それらの抑揚みたいなものをどのように取り入れるか。自分なりの方法論でトレーニングしていました。

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歌っている内容の感情、匂い、景色、どのようなものを発信したいのかというイメージも含めて、それを身体と一致させる。たまに「もっと気持ちで歌えよ」というディレクターがいます。ただ、その言葉を真に受けて、技術をおろそかにして本当に気持ちだけで歌った時にそれらが相手に伝わるのか。

「技術のない人が気持ちでバットを振ってもボールに当たらない。技術があれば、少しくらい気持ちが下がっていても、あるいは集中力が下がっていても、体が動く」

アスリートのイチローさんがそのようなことを言っていて共感しました。まずは技術を養って、そこに感情を乗せていく。感情が高まった時に100%の実力が出せるようにする。感情だけ爆発していても、むしろ技術は下がってしまう。

嶋津
再現性もないですしね。感情をコントロールするためにも、技術が必要になりますよね。

広沢
自分の「想い」を表現するために、技術を獲得する。歌っていて、理屈ではなく感情が高鳴る時もあります。高まれば高まるほど、身体性とフィットするところへ持っていく。

矢野
すごいね。そんなに分析していたんだ。

広沢
まきちゃんのライブもそういうことだと思うよ。すごく丁寧に歌う。流れていかない。

嶋津
一つひとつの言葉が高い質量で届きます。

矢野
流させないよね。そうやって言葉を、一言、一言生み出すのにすごい時間も苦労もかかるわけじゃないですか。歌詞も知らないで初めて聴いてくれた人もいるかもしれない。「歌い出した瞬間に伝えたい」という想いがあるから。

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今、広沢くんの話をはじめて聴いて、「確かにそうだ」と思っていて。自分もそうやっているのだけど、そこまで深く分析したことはなくて。でも、自然とやっていることは確かにその通りなのね。

いつも大事にしていたのは、とにかく言葉と寄り添う歌───「言葉と寄り添っていたい」というのはずっと変わらずに意識していたと思う。

嶋津
CDや音源と生演奏は全く違うもので。歌い手はもちろんのこと、聴き手が消耗するエネルギーも変わります。ステージ上から放つエネルギーも相当な力ですが、それに伴って受け取る側もまた相当な力を要します。「心が動かされる」ということは、その分エネルギーを消耗しているということですよね。

だから僕たちは、彼らの歌を聴いていると、涙があふれる。歌詞に感動しただけでなく、曲に感動しただけでなく、演奏や歌唱力だけに感動したのではない。その一言ひとことに凝縮された、あらゆるものの塊に、僕たちの無意識の中の「何か」とリンクする。




心で届ける

嶋津
先ほど広沢さんが言っていた、「ステージ上で高まる瞬間」というのはどういう時ですか?コントロールができなくなることもあるのでしょうか?

広沢
高まる時はあるよね。それは人生の中でのタイミングというか。奇跡的な巡り合わせのようなものを感じた時。予想もしていなかったことが起きたり、歌いながら自分で聴いているというような感覚になったり。でも、こっちはステージの側なので崩壊できない。

嶋津
お客さんがいるというだけではなく、別のストーリーが含まれた時。神経を綱渡りするような繊細さが求められるのですね。

矢野
集中力がいるよね。心を〝無〟にしないと。

広沢
集中力がないといいパフォーマンスにはならないからね。

矢野
歌って、目に見えないじゃないですか。手に取れないし、心で届けるものだから。「歌う」という行為そのものがメンタルの作業なんですね。

だから、その時の自分の心の状態は、全て一期一会ですけど良くも悪くも表に出てしまう。それをわかっているから、いつも独特の緊張感でステージに上がるという感じです。緊張せずに歌えることなんてこれからもないんじゃないかな?人によるのかもしれないけれど、私の場合は緊張しなくなったら「もう辞めた方がいい」と思っています。

嶋津
言葉では説明できない気迫や想いを含めて、ステージの向かい側で聴き手は受け取っている。その「見えない力」はアーティストの小さな一つひとつの積み重ねによって生まれてくるのかもしれません。

広沢
向き合い方が常に100%だからね。それが伝わるのでしょう。




言葉の人

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嶋津
歌詞というのは、普段の言葉が蓄積され、それを圧縮し、研磨していくことで質量を高めていくのだと思うのですが───密度の高い言葉に磨き上げていくイメージです。その元になる言葉はどこから生まれてくるのでしょうか?

矢野
私の頭の中が、もしPC上で見えたとしたら、文字がだだだだだっと絶えずに打ち込まれた状態だと思います。一人で常に頭の中でしゃべっています。例えば、歩いている人のコートの色がきれいだったら、「すごいきれいだなぁ、あれ何ていう色なんだろう?黒でもなく白でもなく、単純にグレイとも言えないチャコールグレイ…すごくきれいだなチャコールグレイ、わたし一番好きかも」と、どこまでも連なっていく。だから疲れるんですよ。

嶋津
ずっと起動している状態ですね。どこかでオフにしないと確かに大変だ。

矢野
ずっと考えたいから。

広沢
言葉が浮かぶの?

矢野
頭の中で独り言が止まらない。外でそれをやったらまずいでしょ。でも、公園とかで犬の散歩をしている時とかは思わず出ちゃいます。木の葉っぱがたくさん落ちているとか、新緑の季節とか、空に浮かぶ縞模様の雲が細いとか、毎日犬を連れて散歩しているあの人、今私に声をかけてきたけどお互い名前も知らないんだなぁ、とか。

嶋津
それってね、風景や光景として言葉になっていますよね。「うれしい」や「悲しい」などの感情もまた言葉になってあふれてくるのでしょうか?

矢野
あります。機嫌の悪い人が犬の散歩していて、犬に八つ当たりしているんですよ。犬がちょっと匂いを嗅ぎたいのにリードを引っ張って嗅がせてあげない。「いいじゃない、嗅がせてあげなよ」って思うんです。散歩ってそういう時間だから。そういう光景を目にした時に、なぜか私は傷つくんです。

犬の側に立って悲しくなって、「あの人には近づかないようにしよう」とか。「わんこには罪もないのになぁ」って。口で言えない分、頭の中でずっと喋っています。

嶋津
感情に言葉を与え、それがまた感情に影響を与え、そこから新しい言葉を紡ぎ出す。そのように連なっていく言葉を洗練させていくことで、歌詞というマテリアル、詩という芸術に育てていく。

ようやく、創作の扉に手をかけたところですが、時間が来てしまいました。今日は創作のヒントがたくさん詰まった貴重なお話をありがとうございました。


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広沢タダシさん矢野まきさんの楽曲は「言葉と寄り添う歌」だ。中核には「言葉」があり、二人はその質量を高めるために、あらゆるアプローチを繰り返す。本質的な部分に触れた瞬間、終わりの時間が訪れた。それもまた、神様のいたずらなのかもしれない。いつの日か、話の続きを聴ける時が来ることを願い。

ひとつの「言葉」に含まれる情報量の多さ、エネルギー、それを届ける技術。理由がわからないまま身体が反応する。心が動いた後になって、ようやく考えはじめる。「自分がどうして泣いているのか」ということを。説明は後付けに過ぎない。自分を納得させるためのもの。本当は、理由なんてよくわからないはずなのに。


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