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言の葉をホウキではいて集めたら暖炉に焚べて音色が天へ

玉葱を飴色になるまで炒めている時間、人生の蝋は溶けていて、玉葱の水分と一緒に気体となって消えてゆく。生きるためのトマトソースのパスタが、自分のいのちを減らすものだと思いながら、地球の一部に還元されてゆく感覚が、あぶくのような心地良さと切なさの質感で余韻として残っている。

お昼にトマトソースのパスタをつくった。

フライパンにオリーブオイルをなじませ、みじん切りにした二玉分の玉葱を弱火で炒める。インタビュー動画を見ながら、まんべんなく火が通るように木べらを動かす。玉葱の水分が湯気となって空気に溶けてゆく。飴色に変わるまで、30分のインタビューを4本、およそ二時間の小旅行。

缶詰から救出したトマトを手でもみほぐし、先ほどのフライパンに注ぎ、なじませ、中火でコトコト煮込みながら考える。わたしの人生の蠟燭は、たった今、二時間分溶けたのだ。残りの長さは知らない。しかし、確実に二時間分短くなった。今を生きるためにつくるトマトソースパスタが、自分のいのちを減らしている。

玉葱の水分と一緒に、わたしの人生の蝋は気体となって、キッチンを満たしていった。

最近、あたりまえのことを、あらためて考えてしまう。春だからだろうか。

「いただきます」とは、調理してくれた人に対してだけでなく、食材に対して「いのちをいただきます」の意味を込めた挨拶なのだと小さい頃に教えてもらった。でも、きっとそれだけじゃない。

目の前にある玉葱を育てた人がいる。世話をして、手入れをして、十ヵ月の時を経てようやく収穫する。だからきっと、その玉葱には玉葱のいのちだけでなく、育てた人のいのちの時間も上乗せされる。流通に関わった人のいのちの時間も上乗せされ、トマトソースを食べる頃には、飴色になるまで二時間炒めたわたしのいのちも上乗せされる。

玉葱のいのちと、関わった人々の消えた蝋の分のいのちを、いただくのだ。

電子レンジで数分あたためて出来上がるものだけを食べていると、忘れてしまいがちになる。数分でできたものを有難がることは難しい。関わった人々のいのちが見えなくなる。だから存在を軽んじて、ぞんざいに扱ってしまったり、簡単に悪口を言えてしまったりするのだろう。

わたしたちは、誰かのいのちの断片を食べて生きている。

出来上がったトマトソースのパスタを妻と二人で食べた。

大切な人が共にいてくれること。いのちを共有してくれている歓びと、それは決して“あたりまえ”ではないのだと気付かせてもらえたことに感謝して。今を自分らしく生きれたら、と。


「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。