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読むことについて語り合おう

今週の土曜日に、このようなイベントが開催されます。

個人的に開催した文章のコンテスト『教養のエチュード賞』で、応募作品をたくさん読んだ経験を認めていただき、声をかけていただきました。ありがとうございます。

池松潤さんと仲高宏さんのお二人と僕の違いは、「書き手に対して提案があるかどうか」という点でもあります。仲さんは「文章の添削」を。池松さんは、もう一回り大きな視点から「書くことへの助言」をされています。形を整えたり、足りない部分を補強したり、コンサルティング的な立ち位置で書き手のスキルを引き上げます。

僕はというと「ただ感想を述べる」。書き手の思考の深いところまで潜っていって手を繋ぐイメージです。「もっと浅いところに行った方がたくさんの人に見つけてもらえるよ」とか「もっと深くまで潜ってみようよ」なんていうことは言いません。その人が潜ったところまで行き、手を繋ぐ、それだけです。

全てのケースがうまくいったわけではありませんが、少なくとも数名の方とは「分かり合えた感覚」を共有できました。この感覚というのは、書き手にとって、または読み手にとっても、特別の物語へと変わります。

『教養のエチュード賞』の経験を通して、気付いたことがあります。それは、「おもしろさ」というのは自分自身の感受性の問題だということ。善意の元でつくられた作品に「つまらない」はない。つまらないのは、自分におもしろがれる力がないからです。現に最後まで目を通してみると、どの作品にも魅力的なポイントは見つかるんですね。

では「つまらない」と思われる理由は何か?その分岐にあるのは、読み手へのやさしさです。「おもしろい文章」は読み手にやさしい。相手が興味を抱きやすい言葉を選び、心に訴えかけるドラマに仕立て、詩的な情景を取り入れています。読み手が「楽しめるかどうか」の想像力が、やさしさなのではないかと思っています。

どれだけ素晴らしい文言を書いていても、それを「読みたくない」と思われるような文章表現(ひどく難解だったり、あるいは督促状のように説明的であったり)であれば、それは読み手へ届きません。届けるための精一杯の努力が僕のいう「やさしさ」なのです。誤解しないでほしいのは、何も「わかりやすい文章が正義」というわけではありません。「読みたい」と思わせる表現力や人間力、あるいは豊かな感受性を文章に落とし込む技術があれば、「難解」という壁もクリアさせてしまいます(偉人や悪人を含めた有名人の言葉、圧倒的な筆力など)。

専門的な知識と一般常識の間を埋めるのはユーモアであり、人間性です。その中で「伝わる状態に形づくる」ということは、やさしさなのだと思います。

そのやさしさを持っている人は、多くの人へ伝える力があります。

一度、話を戻します。

「おもしろさ」というのは自分自身の感受性の問題であり、善意の元でつくられた作品に「つまらない」はないということ。書くことが技術なのであるとすれば、読むこともまた技術です。

やさしさを持ち合わせていない文章であっても、魅力の欠片は必ず混じっています(善意の元でつくられていれば)。そこをすくい上げ、書き手の思考をイメージする。そうすれば、一見短所と思えた部分でさえも愛おしさが滲み出てきます。

文章を〝読みやすく〟整えることよりも、この愛おしい欠片たちの光の当て方を考えた方がおもしろい。僕の「読むこと」はそういう姿勢です。

さて、そんなこんなで、僕の「読むこと」とお二人の「読むこと」の違いを述べましたが、当日は全く違う話をしようと思っています。

何がいいかな。でも、とにかく話したいことはたくさんあります。池松さんと仲さんに聞きたいこともたくさんあるし。もし良ければ、質問などいただけましたら事前にお二人へもシェアしたいと思いますので、DMでいただければと思います。

池松さんと仲さんは高いインテリジェンスの持ち主なので、僕は一人ドキドキしていますが(あの応募フォームどうやってつくっているんだろう?すごいよね)。

みなさん、どうぞご参加ください。zoomでお会いできることがとても楽しみです。


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イベントスピーカー




「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。