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吉玉サキの「嘘のない言葉」と文体論【Last Night オンラインバー vol.10】

嘘のない言葉に、惹かれる。
嘘のない言葉だから、力がある。

2018年7月にcakesで『小屋ガール通信』の連載がはじまり、2019年6月に平凡社から『山小屋ガールの癒されない日々』が刊行された。あの日から一年───ライター/エッセイスト吉玉サキさんにインタビューを行った。


吉玉さんはおもしろい。自分の中の「本当」や「嘘」に対する感度が高い。独自の視点、明瞭な思考、そして、哲学。それはきっと10代の頃の小説にはじまり、膨大な量の文章を書いてきたからだと想像する。

「書く」ということは、客観的な視点を持つこと。

俯瞰して自分を観察し続けた時間、その思考を言葉に収斂させた回数、その蓄積が彼女に〝彼女が彼女であるための哲学〟を与えた。

***

エッセイ
〈体験の言語化〉

嶋津
『山小屋ガールの癒されない日々』は、吉玉さんが山小屋で働いていた頃の体験が明るくユーモラスに描かれています。cakesの連載から書籍化が決まり、ある種、〝吉玉サキ〟はnoteの書き手にとってのロールモデル的な存在になっているように思います。

おそらく多くの書き手が「自分の体験であれば、読み手を楽しませる文章が書けるかもしれない」と思っているのではないでしょうか。そこで今日は「体験を文章に落とし込むこと」についてお伺いしたいです。

体験を文章に落とし込む難しさはあって、読み手からすると「これは日記じゃないか」と思われかねない。吉玉さんの文章はしっかりと心に残るし、視点を含めて興味深い。読み手の深い部分に届けるための調理がていねいだと感じています。その辺りの工夫はどのようにされていますか?

吉玉
cakesで連載していた『小屋ガール通信』の場合、素材は「山小屋での体験」です。素材そのものが特殊で珍しい職業なのですが、ただ「山小屋の生活」を書いても、そもそも山や登山に興味のない人にとってはおもしろくないんですね。そこでフックとして、全く山と関連のない人にも読んでもらえるように、山小屋で出会った夫との馴れ初めの話や職場での人間関係の話を書きました。山に興味がなくても、人間関係には興味がある。

「山」という素材で、cakesの読者に興味を抱いてもらえるテーマにして全面に書くという工夫はしました。

嶋津
確かに「山」はスペシャルで、〝山小屋〟というワードはキャッチーですが、その情報を知りたい人は限られていますね。その中に、恋愛や人間関係など普遍的な要素を盛り込む。その組み合わせで読者の幅を広げていった。

吉玉
やっぱり、みんな自分と関係ないことをそんなに読みたがらないじゃないですか。特に今のSNS時代の読者さんは。私自身、会社で働くことが続かなくて、入社してすぐに辞めた経験があります。そこから山小屋に行ったという話を第一話に持っていきました。きっと仕事を辞めたい人ならたくさんいますよね。だから、みんなと関係がありそうな面を山小屋生活から拾ってきて書くようにしました。

嶋津
もちろん吉玉さんの体験した物語が元にあると思うのですが、連載の時は編集者の方もいらっしゃいますよね。編集者との対話の中でそのようなアイデアが生まれていくのですか?

吉玉
そうです。編集さんと話しながら決まっていきます。例えば「一番おもしろかったスタッフさんってどういう人ですか?」という質問に「えっと…」と答えているうちにおもしろいエピソードが出てきて「あ、この話で一本書けそうですね」という形で。

嶋津
編集者が質問してテーマやストーリーを吉玉さんから引き出していく。小説にしろ、エッセイにしろ、「書くこと」は孤独の作業ですよね。ディスカッションの中でアイデアが生まれたり、それをブラッシュアップしたり。そのような「対話」の壁打ち相手としての存在は重要ですね。

吉玉
「書きたいな」と思う瞬間って、人との関わりの中で生まれてくるものだと思うので。エッセイって、接点がないとエピソードが出てこないじゃないですか。登場人物が自分のみだと、読者さんは飽きてしまう。日常で家族や友人、職場の人たちと話した一場面を切り取った時におもしろくなったりする。

もちろん一人で山に登って、そのことについて書くことだってできます。だから「必ずしも」ということではないのですが、どうしたって「人との接点で書きたい」という気持ちは生まれる。人に質問してもらうことで過去のエピソードが掘り起こされ、その連鎖で次第に記憶が蘇っていく。「そういえばこんなことがあった…あんなこともあった…」って。今感じているこの気持ちが、例えば十年前に体験した時の気持ちと似ていたり。あるいは、体験は似ているのに、その頃とは感じ方が違ったり。そういうことを思い出すことで、現在のエピソードと過去のエピソードを繋げて一本書き上げることもできます。

嶋津
時間軸を移動させて、体験や感情をリンクさせる。確かに、この本自体も山小屋の生活がテーマではありますが、メインは「人との関わり合い」───職場の仲間やそこを訪れるお客さんとのストーリーですものね。

吉玉
そうですね。他に工夫したことと言えば、必ず各話の最後の数行が少し説教くさいんです(笑)。エピソードから得られる学びのようなものを書いて締めると、ウェブ記事っぽくなるじゃないですか。

嶋津
確かに読み終えた時に納得感が生まれますね。それも書いていく中で、「芳醇な読後感を出すために」ということを考えた上でのデザインですよね。

吉玉
そうですね。投げっぱなしでカットアウトした方が文学的だけど、それはcakesの読者さんウケはあまり芳しくない。毎月cakesに500円の課金をするような読者さんって多くの場合、「学び」や「気付き」を欲しがっているじゃないですか。だから、冒頭と締めに〝有益っぽい空気〟にすることはサービスとして大事だなって。

嶋津
非常に重要なポイントですね。メディアによって表情を変える。「化粧を変える」と言ってもいいかもしれない。

読ませるデザイン

吉玉
ウェブ記事って最後まで読まれることが大切で。重複した表現が続くと、離脱率が上がるんですね。スクロールして、最後まで読まれることを読了率と言います。読了率の高いサイトの方が検索上位に上がってくるので、ライターはなるべく最後まで読まれるようにがんばって書きます。仕事の時は、最後まで読んでもらえるように、読者さんと飽きさせないためにも同じことを何度も言わないようにしています。「次は何だろう」と思わせ続けることができれば、最後まで読んでくれる。

嶋津
牽引する力ですね。
noteを読んでいて気付いたのですが、吉玉さんはお笑いもお好きですよね?文章を書く視点もお笑いと似ていますよね。飽きさせない工夫や、「何におもしろがるか」という点で。

吉玉
確かにそうかもしれません。M1グランプリだと4分の漫才。「4分」って、いくつ笑いを入れられるかという「数で勝負してくる人」や「精度で勝負してくる人」がいますよね。それもやり方次第なのではないかと思います。文章と似ているかもしれません。間にキラーフレーズを入れて飽きさせないように工夫したり、続きが気になる展開を置いてお客さん(読者)を引っ張っていく。

嶋津
確かに、ウェブ記事は「惹き込み方」という点で言えば、賞レースの漫才のつくり方と似ているかもしれませんね。手数の多さがトレンドになってきたら、ゆったりとした「間」を効果的に見せるスリムクラブのようなコンビが脚光を浴びたり。

吉玉
そうなんですよ。逆にそれはそれで差別化が図れる。やり方としてはすごいなぁと思います。

嶋津
ウェブはM1の漫才で、紙の本は落語に近いかもしれないですね。本当に落語が好きな人でないかぎりテレビでも30分見続けてくれない。

メディアによっての文体論

嶋津
メディアによって表情(化粧)を変える。それは構造だけでなく、文体に大きく影響していますよね。紙とネットメディアではどの辺りが大きく違うのでしょうか?

吉玉
読者の層が違いますよね。紙の本をわざわざ買ってくれる人って、その地点でそこそこ文章が読める人だと思うんですよ。「私」に興味があるか、あるいは「山小屋」に興味がある。だから、書籍であれば少々難しく書いても買ってくれた人はついてきてくれる気がします。私は雑誌や新聞にも文章を書いているのですが、その媒体の読者さんがついて来れる文章というのはあると思います。それを意識しています。

ウェブの場合、その媒体のファンでなくても読まれる可能性が高い。例えば、cakesのファンじゃなくても、Twitterのタイムラインに流れてきたり、検索で辿り着いたり。私のことを全く知らない人でも読んでもらえる機会が多い。読書習慣のない人でも読むので、読了率を上げるためにウェブでは一文を短くしたり、なるべく簡単な表現で書いたりすることは心掛けています。

嶋津
タブを閉じてしまうその指を止めるやさしさが必要ですよね。

吉玉
そう、やさしさ。それこそ、飽きさせないようにすることは大事です。雑誌だと、お金を出して雑誌を買う位だから、その雑誌の持つテーマに興味がある。私は登山雑誌で書くことが多いのですが、その雑誌を手にする方は「登山」に興味がある人だから、わりとディープなことを書ける。

嶋津
紙の方が読者のイメージがしやすいですね。

吉玉
「わざわざ読む人」と「たまたま見つける人」で全然違いますよね。わざわざ私の本を見つけて買って読んでくれる人って本当にありがたいです。〝吉玉サキ〟のことを知らないまま、たまたまネットで見つけて読む人の場合は、みんながみんなちゃんと文章を読める人ではないので、「別にそんなこと書いてないじゃん」と思うような的外れな批判が起きる時もある。ウェブだと読者さんをそこまでフィルタリングできないので、そういう違いは大きいかもしれません。

嶋津
メディア(ウェブ、雑誌、新聞、本)によって、受け方も変わるし、テーマも変わる。これは非常に重要なポイントですね。

自意識の檻

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嶋津
今回のインタビューにあたり、吉玉さんの初期のnoteも読ませていただきました。『山小屋ガールの癒されない日々』は、とても明るくユーモラスで、楽し気な印象だったのですが、noteで書きはじめた当初はどちらかというと内省的な印象でした。その中で「自意識の檻」と表現されていていた部分があり、見事な表現だと感心しました。その「自意識の檻」の中でご自身と向き合ってきたと思うのですが、そこから一年でテイストがこんなに変わるんだという驚きがありました。

僕は小説やエッセイを書く人間は、自意識は大事な要素だと思っているんですよ。独自の視点がなければ、魅力的な文章は書けない。仮説ではあるのですが、この本での到達点として、その〝自意識〟のハンドリングスキルが上達したのかと考えたんですね。自意識をコントロールする力。

吉玉
そうかもしれない。

嶋津
もちろん最近の文章を読ませていただいても、そこに吉玉節はある。一つのことをつぶさに観察して、そこから感情を引き出して言葉を紡いでいく。場所や気分によって文章のカラーを使い分けることが見事だなって。そのトレーニングはどのようにされていったのでしょうか?

吉玉
私は作家ではなく、ライターですので、クライアントさんから求められることを書くことが仕事です。だから、媒体によって文体も変えていきます。読者さんのことは編集さんが最も良く知っているので、編集さんと話し合いながら、媒体のカラーに合わせて書いています。

たまに「今までのうちのイメージを壊して、吉玉さんの好きに書いてください」と言われることがあるのですが、それはそれで「私のnoteのイメージを求めているんだろうな」と相手が何を欲しているかを察してしまう。どうしても人の顔色を窺って書くということが染みついています。

『小屋ガール通信』ではcakesの読者向けの空気で書いているし、noteは私の媒体なので「何かの色に寄せる」ということがない唯一の場所かもしれません。

嶋津
noteが最も吉玉さんの純度が高い場所なのですね。その住み分けがあるから、違う媒体では別の〝吉玉サキ〟の表情が見せれる。お互いが良い具合に機能していますね。

吉玉
そうかもしれないですね。仕事と趣味のバランスとして。

嶋津
「自意識」を手懐けることは、仕事によるトレーニング。でも、その感受性を保つことも重要ですよね。だからこそいろんなことに気付けるし、繊細な感度で文章を書くことができる。

吉玉
わりと理屈で考えていく性質だと思います。でも、理屈では合理的に割り切れない感情ってあるじゃないですか。そのバランスを意識しています。

嶋津
良い言葉が出ました。理屈で合理的に考える、でも感情の部分割り切れない想いがある。頭でわかっていてもどうにもならない。そういう気持ちが文学だったり、吉玉さんの真骨頂でもある。頭が整理され過ぎているから、感情に寄った時に、折り合いがつかなくなる。

吉玉
バランスですよね。合理的な部分と割り切れない部分。それを、どれだけ文章に反映させるかという。

なるべく嘘はつかないようにしています。みんな〝なんとなく〟言ってしまうようなことってあると思うんですよ。例えば、ネットを見ていると「大切な人たちが自分を理解してくれているから、どうでもいい人から何を言われても構わない」という内容がTwitterのタイムラインに流れてきたりします。それって「本当かな?」って思うんですよね。

私にも夫や友人など、理解してくれる人はいます。でも、どうでもいい人から何かを言われたら、普通に腹が立つんですよ。自分の体験に基づいた実感として、本心の言葉であれば全然良いのですが。でも、たまに嘘くさいと感じることがある。

私も手癖でなんとなく書いてしまいそうになるようなことはあって。例えば、空の描写で「澄み切った青空」とつい書きそうになってしまうことがある。その空を見た時に本当に「澄み切った青空だなぁ」と思ったのであれば書いてもいいのですが、〝なんとなく〟で書いてしまうとダサいと思うんですよ。もう一人の自分が「それは本当か?」と囁いてくれます。

嶋津
「それは吉玉サキの気持ちか?」って(笑)。

吉玉
手垢のついた表現でも、自分が心底そう感じて「その言葉を使う意味はある」と思えば良いのですが、〝なんとなく〟で書くとダサいので気をつけています。

磨かれる文章

嶋津
何が吉玉さんの文章を洗練させたのか。もちろん日々、文章を書き続けてきたことの蓄積ではあると思うのですが。ここまでドラマティックに変わったのは、編集者とのコミュニケーションや、複数の媒体に出ることによって読者の反応が変わったことではないだろうかと感じました。

吉玉
そうですね、変わっていったと思います。昔書いていた文章を読むと、表現の重複が多く、論の展開が少ない。出来事が書いてあり、それに対して「私はこう思いました」と。その「こう思った」という感想を2000字くらいで書いているんですね。重複する部分を削っていくと400字くらいになる。内容が薄いんですね。カルピスの原液が少しだけで、あとは全て水のような。ついつい自分にうっとりして筆が走ってしまう。客観的な視点が欠けていたのだと思います。

仕事として文章を書くようになると、編集さんが少しでも重複している部分は全て削る。そうすると、当たり前ですが密度が高くなりますよね。noteをはじめた2017年頃に書いていたものは素人のブログとしては読みやすいのかもしれないですが、出来事に対して感想が「1:9」くらいの割合です。そこから広がりもなければ、展開もしていない。

今は、話の転がし方を覚えました。「出来事」に対して気持ちを書き、〝反証〟として「でも、違うのではないか?」や、〝類似〟として「このようなこともあった」など、そこから二転三転と論の展開ができるようになってきました。だから今はカルピスの濃度が高くなっているような気がします。

嶋津
密度が高まったことにより一行あたりの威力は上がっていますよね。凝縮されているので。

吉玉
それはやっぱり編集さんが厳しく赤字を入れてくださったおかげです。

嶋津
なかなかそれは自分一人では気付けなかったりしますよね。

吉玉
気付けないですよね。2、3年前に書いたものとかを今読むと「未熟だなぁ」と思ったりします。今書いているものも数年後に見返した時に、「ダメだなぁ」って思えていたらいいですよね。

嶋津
ずっと成長し続けているという証ですものね。


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吉玉さんの言葉には嘘がない。

だから惹かれるし、また「読みたい」と思う。今回は、論理的な文章構造と自意識のハンドリングについて伺うことができた。しかし、創作の核にあるのは、やはり彼女の哲学なのだと感じた。それは、彼女だけの「体験」と「言葉」を堆積させてできあがったオリジナルの資源だ。

吉玉さんはおもしろい。


※オンラインCafeBarDonnaでの公開インタビューの内容です。


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【オンラインCafeBarDonna】




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