見出し画像

「読む」論

明日のイベントのため、「読むこと」について考えていました。

すると、思考と経験が頭の中で繋がっていき、思いもよらなかった結論に至りました。これは一つの「コミュニティ論」であることに気付きました。

以前から僕は「文章とは、書き手と読み手との対話である」と書いてきました。つまり、コミュニケーションの手段として捉えています。

第二回教養のエチュード賞を終えた後に書いた記事でも、「読むこと」とは「聴くこと」と同じであると述べた上で、自戒を含めて「意外と人は、人の話を聴いていない」と書きました。相手に投げかける質問が、「人の話を聴くため」ではなく「自分の承認欲求を満たしたいため」に行われているということ。

端的に言えば、多くの人は相手の話を聴いている(読んでいる)ようで、聴けて(読めて)いないということです。そこで、僕は「読むこと」の重要性について書きました。「読むこと」を「対話」だと考えれば、見える景色が変わってくるという旨を。

あの時はまだコロナウィルスの問題がここまでの騒ぎではなかったので、個人的なテーマとして留めていたのですが、今の状況を考えると「読むこと」───「対話」は、生き抜くために必要な能力だということがわかりました。つまり、「対話」という実感の伴ったコミュニケーションは、この時代を生き抜くために必要不可欠な力になったということを意味します。

それは、僕が今進めているプロジェクト『知性の交換』からも同じことが言えます。もう一度言います。重要なことは「実感が伴ったコミュニケーション」です。それがコミュニティ論に繋がっていくのですが、この続きは明日のイベントで(マガジンを購読されている方、サークルのメンバーは続きをご覧ください)。

ぜひ、ご応募ください。フォームに記入いただくだけで、無料で参加していただけます。


ここから先は

2,257字

「繭が風を手に入れ、シルクとなった」 対話のこと、文章のこと、考えるということ。

「ダイアログジャーニー」と題して、全国を巡り、さまざまなクリエイターをインタビューしています。その活動費に使用させていただきます。対話の魅力を発信するコンテンツとして還元いたします。ご支援、ありがとうございます。