早稲田大学映画サークル上映会@早稲田小劇場どらま館

はじめに


2022年5月4日。早稲田大学どらま館で行われた映画サークル上映会に行ってきました。
僕が観たのはDプログラムの4作品。
以下、各作品の感想を残しておこうと思うのですが、その前に言い訳というか前置きをしておきます。

自主制作映画に対しての感想って、ある程度良かったところを当たり障りない感じで褒めておけば、作った人たちもそれなりに気持ちよく、書いた本人だって感謝されるかもしれません。

ぶっちゃけ上から目線で批判めいたことを書かれて「なるほど」と思う人なんてどのくらいいるのか、とも思います。
ただまぁ、自分自身も自主制作映画を作っている身として、観たからにはちゃんと感想や思ったことを残しておきたい気持ちもあり、なので以下の感想は作品を作られた制作者の方々に向けて書いたというよりは自分自身の備忘録に近いものとして書くつもりです。

また、蛇足ながらさらに言い訳を重ねておくと、大前提として、そもそも早稲田大学の(複数ある)映画サークルの作品群はどれもクオリティが高く、そもそもの平均的なレベルが高い。僕自身がこれらと同じレベルのものを作れるのかと言われたら、いや、ちょっと無理かもしれません、とも思います。

この10年くらいで飛躍的に安価で高性能なカメラや編集ソフトが登場し、「学生映画」「自主映画」と言っても、ぱっと見のビジュアルではほとんど商業のそれと変わらなく見えるようなクオリティのものも増えました。

ただ、画面のクオリティがグッと上がったことによって、今度は以下の要素のクオリティが結構重要になってきているような気がします。
・録音
・シナリオ
・演出

録音は、機材が高性能になっているにもかかわらず、自主映画においては映像と比較するとややクオリティが追いついていない作品が多いです。(正直自作でもその面は否定できないですが)
シンプルにセリフが聞き取りづらかったり、効果的な「音」がいまいち入ってこなかったり。
また、画面のクオリティはめちゃくちゃ高いんだけど、シナリオ面で、「こんなこと言うかな?」とか、「この展開って面白いかな?」とか感じる場面が多かったり。

あるいは、演出の問題で言うと、「果たしてこのシーンをやるのにこの空間でよかったんだろうか、撮りやすい短かな便利な空間で撮っていないだろうか、いやそもそも画面に写っている人はこのように演出されるのが良かったんだろうか、みたいなこととか。

なんだか「映画っぽく」は確かになってはいるんだけど、これは本当に「面白い」んだろうか? なんとなく「映画っぽく」なったことに満足してしまっていないだろうか?みたいなことを、考えこんでしまうことも多いです。

前置きが長くなりすぎました。
以下、観ながら考えたことなんかを残します。

『Decalcomania』
北野陽太監督

最初のシーンから気合の入った画面で、時間や経験の関係なんかで、必要なカット数よりも少ないカット割でまとめざるを得ないことも多い自主制作映画にあって、かなり執念を持ってカットを重ねて撮っているのが凄いところでした。

一方、オープニングがひと段落し、主人公の母との会話が始まった瞬間に、「あなたは昔はサッカーをやっていて……」といったことを話し出すのが、そんなこと言うかな?という違和感が強かったです。
このシーンに限らず、若干設定やテーマ、バックグラウンドや心情の変化を説明的な台詞で処理してしまっている印象が強いのは惜しいところでした。

クライマックスで「変わりたい」という想いを抱えている主人公が「変われるかな?」と「母親」に対して尋ね、母親が「どうしたの急に?」といった(あまりにもノーマルな)リアクションをする一連は、フィクションとリアリティのバランスとしては逆に感じます。
「変われるかな?」といった核となるセリフの部分は何かもっと全然違うことに置き換えれないでしょうか。それも、ストレートに「変わりたい」という想いを伝えるより、逆に「変われない」とか「変われるとは思ってない」部分を強調するとかで。

あまり熟慮せずに考えていますが、冒頭の会話を活かして、母親が出してきたサラダを無言でムシャムシャ食い出して、お母さんが何か異様なものを感じて「あなた誰?」と尋ねる、みたいな、そういう置き換えはできないかな?とか。

あまりいい例えではなかったかもしれません。すいません。

どのキャラクターも、物語上の役割とは別に人生があるはずなのですが、お母さんは息子に「元気を取り戻してほしい」のか「失望している」のか「母として見守っている」のか、どう規定するのかによって、言い方も内容も全く違うものになるはずです。

最初のお母さんの演技のトーンはやけに怖くて感情を感じさせないので、すっかり息子に失望しているようにも感じるのですが、実際には面倒見がよく、なんだか「お母さん」という役割以上のものが見えてきません。

「ジャンルっぽさ」「暗く重いトーンにしたい」といったイメージ的な部分に引っ張られて、それを実現するための台詞や表情、言い方になっており、物語的な機能としては実はあんまり機能していないのでは?と感じます。

つまり、冒頭に書いた通りシナリオの部分で、この人は本当にそんなことをそんな言い方で言うのか?とか、どんなシチュエーションでどんな風に言わせると「面白い」のか、とか、そういう部分を詰めることによって、元々のクオリティの高さがグッと引き立つのではないかと感じた次第です。

その他
・別れて気まずくなった彼女とサークルの会合で会った、という時に、無言で気まずそうな顔をする彼女とそれを見つめる主人公、というのは、意味としては通じるけど、通り一遍な感じがあって、この映画ならではの「気まずさ」がもたらせないかとか

・2人の同じ顔の男がいる、というメインのアイデアを、複雑な合成は無理でも、多少荒くてもいいから、なんとかワンカットだけでも完全に同一フレーム内で顔と顔を対峙するようにできなかっただろうかと。カットバックで処理するのはイージーではあるんだけど、撮影上の都合以外の理由があまりないはず。

・人を道具を使って殴る瞬間が殴っているように見えなかったのですが、結構勝負どころだったのではないか、と感じました。クライマックスの殺害シーンも、決定的な瞬間を映さないのですが、果たして「映さない」が最も効果的だったのかどうか。

・全編音楽が流れていて、良質な音楽で雰囲気作りに役立っているのですが、音楽をなくしたときに成立しなさそうなシーンがあり、経験上音楽がないと持たない撮り方のときは結構危ない。クライマックスの「もう一人の自分を探す主人公」というのが、闇雲に走っている、という映像を畳み掛けるのですが、どこに向かって何を根拠に走っているんだろう、という疑問があることもあって、ただ走っている人が映っている感じになっている。どうすると「殺さなければならない相手を本気で探している人」に見えるんだろうか?というアイデアがカット内に必要な気がします。

・サークル内で自分が人気/人気じゃない、恋人ができた/別れた、高校までサッカーをやってた/やってなかった、といった要素は、僕がとっくに大人になってしまったからかもしれませんが、本質的なイベントとはどうしても思えず、自分の利生の姿のような同じ顔のドッペルゲンガーが現れた、という物語に対して、もっと決定的な出来事(事件)が3〜4つ入るべきなのではないか、と感じました。

・殺された友人は、恋人はどうなったのか?主人公の「変わりたい」という欲望の(やや不穏さも孕んだ)成就、という幕引きをしていますが、彼ら彼女らはそのためのコマではないはずで、そこを描かなければ「主人公気取り」の主人公の問題は解消されないのでは、と思います。
この物語においては、主人公じゃない人物をいかに描くか、という部分が結構核心だったんじゃないかというような気がしています。

『hang out』
大野蔵斗監督

ガールズ版の『セトウツミ』のようなイメージの作品なのでしょうか。
前提となる2人の関係性がなかなか伝わりづらく、シュールといえばシュールではあるのですが、ややテンポの緩い構成ゆえ、なんだか画面のクオリティや世界観の作り方は上手いと感じるものの、イマイチ前のめりになりきれないものがありました。

これもやはり、この2人の関係性やバックグラウンド、そもそものキャラクターをどう伝えるか?の部分で、必要な手続きを端折って、代わりにポップでキュートなビジュアルに力を注いでいる印象でした。
先述の通りビジュアルの気合の入れ方なんかは凄いと思うのですが、その魅力を伝えきるシナリオや演出をする難しさも感じました。

・コーヒーや砂糖にミルクを大量に入れる、という描写は、なんとなく面白い、変わり者っぽい、という以上に、何か強い面白さのある表現なのかどうか。(調味料をやたら大量に入れる、って割と味覚音痴的な定番表現ですよね)
・『セトウツミ』(や他の面白い会話劇)の場合、取り止めのない会話をダラダラしているようで、案外起承転結がちゃんとあって、尚且つ(これが一番大事だと思うのですが)どうでもいい会話の中に僅かにずつ「自己開示」と「他者理解」の瞬間があるんですよね。

このふたりはすごく狭いところで「好き」「苦手」「避けてる」「避けてない」といった距離感のやりとりをしているのですが、10ふんや20分映画の中で会話をすると、劇的なものではなくても、何か変化があるのではないでしょうか。
その変化をどう掴むか?と言ったところで、面白さの獲得につながる気がしました。

別に劇的な変化がなくてもいいのですが、この二人はこの会話の果てに「どうしたい」のか、みたいなこと。
『セトウツミ』(別にセトウツミを目指したわけではないかもしれませんがわかりやすいので例として出し続けます)において、この意味のない会話は、ある種の青春のメインストリームからの「逃避行動」であり、二人は「逃避」の共犯者として、意図的にそこでダラダラしています。

そして、この時間は有限のものであり、高校時代の終わりとともに終わるかもしれない予感だとか、そういう視点をほんのりと漂わせながら進んでおり、だからこそただ男子高校生が二人でだらだら会話している以上の何かが画面に映っているような気がしてきます。(漫画版だと実際無意味な会話に思えた会話は無意味ではなかった、にまでなりますけれど)

彼女たち二人はあそこで落語のオチみたいなオチがついた物語の、その中で、その先でどうなって、それを僕たち観客はどう見つめるのでしょう。そしてどう見つめると「面白い」のでしょう。

『闇の叫びを聞け』
比嘉光太郎監督

UFOについてのホラー短篇で、全篇に不穏な空気と情報量の多さで、かなり特異な空気を作り上げていました。学生映画である以上やむを得ないというかそれ自体に問題はないのですが「青春」がベースになる映画が多い中で、明確にジャンル映画をやろうとしている意思みたいなものは(単に僕がホラー好きだからというのもありますが)素晴らしいと思いました。

一方、主人公が異質な圧倒的なものに遭遇し、迫ってきている、というリアクションの部分が、お芝居的にも撮り方的にも欠けており、その辺りは勿体ない印象でした。

おそらく恐怖シーンというのは、「恐怖の対象そのもの」と、「それに恐怖する人物の視点」の両方があって初めて成立するものと思われるため、人間に対してカメラをどう向けるか、というのは重要になる気がします。

後ろ向きにたたずむ人々の撮り方などは正統派Jホラー演出といった感じでとても良かったのですが、全篇を明るい日の光のもとで撮ったことが、怖さという点ではややパンチ不足には感じ、高尾山近郊のシーンではナイトシーンもあるとよかったのではないかと。
太陽を扱うテーマ上、日の光のもとで物語を進めるのはある程度必須だとしても、ですね。

好みの問題もありますが、若干ハイブローすぎる感もあり、残されたノートを辿る主人公の造形を、もう少しフラットな視点にしてあげて、劇中に出てくる情報を少し補完する(知らない主人公に知っている誰かが教えてあげるとか)、もしくは解説しないにしても、主人公にとって「普通はほとんど知らない、よくわからない情報の羅列である」ということを観客に示すだけでも、もう少し飲み込みやすくはなるか、とか。

あるいは、情報それ自体を不穏な音声として見せる現行の見せ方よりも、もう少しちゃんと内容を聴かせる方向にするか。

また、決定的な瞬間として、クライマックスで「遭遇」するロケーションが狭いアパートの一室なのですが、これは多少嘘をついてでも、劇的な空間で劇的に演出してあげたかったところなのではないかとも思いました。

『泥だらけの自転車 立てよ棒』
岡本雄三監督

エロティックな冒頭から、無言で女性を追い続ける男性、というシーンの積み重ね。
自主映画において、クリアな音声を録ることのハードルの高さを乗り越える方法として、同録音声を使わない、というのが一応はあり、敢えてセリフなしで、東京の街中でつかず離れず歩き続ける、ある種の男女関係のメタファーとしてやってやろう、みたいなことなのかな、と思って見ていました。
が、終盤になってあっさりとカフェでの会話劇になり、またその際のセリフや演出も、割と日常の範疇というか、「さっきの男誰?」みたいなやりとりで、「え、そのリアリティなの?」と面食らいました。
正直、ここで会話が始まった瞬間に、ドラマを語る意図であれば、ここまでの下りは流石に冗長なのでは、と感じました。
逆にこの手法でやり切るのであれば、セリフは完全に排除するか、入れるにしても一言一言のパワーを押し出していく必要がありそうです。

クライマックスで、駅のホームで追いかけて、抱き合って、というのはあまりにも既存の想像力の範疇で、それまでのシュールな感じの語りに対して、何かこう、「駅のホームで抱き合う男女」という映像上のエモさ、みたいなところに寄りかかっているのではないか、と、かなり厳しい言い方ですが思いました。

タイトルからしてストレートにセックスのメタファーになっていて、そもそも性行為を匂わせてスタートしている割には、終盤に至ってめちゃくちゃピュアにただ抱き合う、みたいなところで着地するのが、であればそもそものセックスや「立たない」ということ自体が「ネタ」や「きっかけ」に終始してしまわないかな、と。

別に濡れ場を描くべきとは全く思わないのですが、なりふり構わずベタな駅のホームシチュエーションを盛り上げるために全力を傾けるのであれば、もっとシンプルに男女関係の機微を重ねていけば良いのでは、と思いますし、逆に前半の表現の面白さに可能性を見出しているのであれば、後半のなんとなくエモい感じで突き進むメインストーリーをやめて、もっと人間関係を映画の映像の面白さで見せ切っていく必要があるのではないかと思いました。

・・・

終わりに

ああ、結局案の定偉そうなだけの文章になってしまいました。

しかし、これは自戒も込めて書きますが、どれだけ映像や編集がプロっぽかったとしても、大体本編の半分くらいで興味が失せ、残りの半分で、「これで勝負する」という何かが必要なのではないかと考えさせられ、それは本当にまったく容易なことではないのですが、企画を考え付き、優れたスタッフやセンスを持ち合わせていればこそ、「さあこの映画はどこで勝負するのか」という点を考えざるを得なくなります。

『Decalcomania』であれば、主人公が自分自身を殺す、という展開を、どう展開していくと他の映画とは異なる何かになるのか。
いっそのこと、「才能にも経歴にも恵まれたもう一人の自分はしかし、自分の驕り昂った人格を抑えられず、友人を殺し、それを知って行方を追った主人公は、自身の元恋人を犯し傷つけている映像を見せつけられ、特別な人間にはなれなかったが最悪な人間にはならなかった自分自身を肯定し、彼を殺す」みたいにしてみるとか。もう後戻りできない瞬間。
『hang out』であれば、ほんの一瞬だけでもいいから、二人は実際のところ通じ合うもののある、と微笑み合う瞬間か、あるいは「こいつのこういうところがどうしてもダメなんだ」とピリッとする瞬間か、何かしら関係性が変わる瞬間を入れられないか、とか。
『闇の叫びを聞け』であれば、<「それ」に遭遇してしまった男>に遭遇してしまった男を、さらに「それ」の拡散に向かう人物として、同じクラスにいる人々を高尾山に誘うか、あるいは逆に、耐えられなくなって命を断つ人物のように描くか。(つまり先に感光した人物との差異をどう描くか)
『泥だらけの自転車』であれば、ずっと追いつかなかった彼女に追いついたその瞬間、二人は何を語り、どんな表情をして、その距離は何を持ってして埋まる/埋まらないのか。

人様の作品に対して「こうしたほうがいいよ」なんて容易には言うべきじゃないとは思いますし、上記はあくまで「こういう場合どうするといいのかなぁ」と自分なりに考えてみた一例に過ぎず、「こうした方が絶対面白い!」みたいなものではありません。

ただ、「この作品ならではのもの」すなわち「俺はこれを作らないと死にます」みたいな何かをどこに見出して、それを表現するためには何をどうすればいいのか、という思考の必要を感じたりしました。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?