怪至考③肝試しと『怪談新耳袋 殴り込み』と『ゾゾゾ』


肝試しが好きだ。

正確には心霊スポットを訪れるのが好き、ということなのだけど、多くの人にとってはそれを肝試しと呼ぶのだろうし、なのでわかりやすさを取って、以下、全部「肝試し」として統一する。

大学時代、『怪談新耳袋 殴り込み』(豊島圭介監督,2008年)をツタヤで新作レンタルして鑑賞した。
わざわざ観たのは、当時ドラマ版『怪談新耳袋』を割と熱心に追いかけていたのもあるし、崇拝していた清水崇監督も出ているらしい、という情報や、犬鳴トンネルに行ったらしい、という情報をどこかで読んで興味をそそられていたのもある。

とにかく、いち早く観て、かなり衝撃を受けた。観始めたのは真夜中だったのだけど、本編を観終わった後、あまりに面白くてそのままギンティ小林さんと豊島圭介監督によるコメンタリーつきで二度目を立て続けに観て、このコメンタリーも本当に面白くて、結局コメンタリー有/無で5,6回ぶっ通しで繰り返し鑑賞して、新作1泊2日の返却期限で返却したのだった。

結局、その後も何度も借りて観ることになり、最終的に購入して、新作が出るたびに発売日に購入するくらいにはドハマリした。

何がそんなに良かったかというと、「旧犬鳴トンネル」で繰り広げられる一連がとにかく凄くて、それまでの『ほんとにあった呪いのビデオ』なんかで観てきた心霊映像とは本質的に違った、現実の怪異としか思えない不思議で怖い事象がちゃんと映っていたからに他ならない。

旧犬鳴トンネルの中に入り、たまたま肝試しに来ていた現地のヤンチャそうな若者たちに教えられた、「トンネルの両端に2人で立ち、中心を指差すように両手を差し出すと、真ん中に霊が現れる」という、いかにも若者の間で広まりそうな眉唾の情報をもとに、実際にやってみせるくだりがある。

そして、この一連の中で、複数のおかしな音声が録れる。

「ここで喋ってんじゃねぇよ」と囁く男の声。

そして、「ド、シ、レ、ドー」と歌うような女の子の声。

この「ドシレド」の音声があまりにも怖くて、なぜ歌っているのか。どういう意味なのかさっぱりわからない、だけど確かに怖い映像に興奮したのだった。(この際恐怖に興奮する癖についてはそういうものと受け止めてほしい)

それまでも、高校時代の友人なんかと肝試しで夜の公園に行ったりはしていたけれど、これを観て一気に火がついた僕は、その後、今に至るまで、心霊スポットを足繁く訪れるようになっている。

・・・

『殴り込み』は、「新耳袋」の舞台になった場所に実際に行く、というのが当初のコンセプトだったため、怪異に対してはあまり考察を加えず、ごろんと不気味な事象や音声をそのまま収めることが多い。

特に初期の豊島圭介監督による作品群はその傾向が強く、その場にある怖さを捉え、実際にその場所に肝試しに行ったような気にさせる作りがとにかく秀逸だった。

売れっ子になった豊島圭介監督から監督交代後の一連の作品は、それぞれ面白いところもたくさんあり好きではあるのだけど、若干いかに過激なことをするか、悪ふざけのバランス感が行き過ぎる部分も多く、シンプルな肝試し感が好みな僕にとっては複雑な方向に進んではいた。

さて、2010年代中盤まで作られた『殴り込み』シリーズは、色々あって休止したり再開したりしているけれども、その間にYouTubeでは心霊系YouTuberがどんどん登場するようになった。

もともとは大物YouTuberが、ひとつの企画として訪れるものが多かった印象だったけれど、先の『殴り込み』シリーズ、『奇跡体験!アンビリバボー』、『稲川淳二の恐怖の現場』シリーズなどといった作品群に影響を受けたと思われるYouTubeチャンネルが登場する。

『ゾゾゾ』である。

『殴り込み』『恐怖の現場』では割とおじさんたちが、YouTubeでは20代の若者たちが心霊スポットに行ってビビり散らかすのがメインだった中、30代の比較的落ち着いている無名の人々が、心霊スポットに行って真面目に長時間検証を行い、その場所の怪異を考察し、収めようとしていくチャンネルはあっという間に人気になり、ホラー好きとしては欠かせない傑作を生み出し続けている。

『殴り込み』がその場所でいかに不謹慎な挑発を行って怪異を撮るかに重きを置くのに対し、『ゾゾゾ』では、『恐怖の現場』的な遺伝子もあり、明らかに怖い場所で長時間一人でいなければいけない、という罰ゲーム的なノリや、ある種の悪ノリ感も多少ありつつ、かなり深く一つ一つの場所を掘り下げる。
単に「霊が映った」「音が聞こえた」では終わらない、何か一つの物語が浮かび上がってくるような構成や、一つ一つの場所にある不気味なディティールを丁寧に拾い上げる。

この場所でかつて何かはあった、それはなんだったのか?

この感覚は、『残穢』のそれに近い。
『殴り込み』と『ゾゾゾ』の間にある一本が、『残穢』なのかも、と思う。

心霊スポットで殺人事件があった、なんて話はいくらでも聞く。
それは明らかに嘘なのだけど、「嘘なんだよね」では終わらず、「じゃあなんでなにもないはずの場所でそんな話が出てきたのか」みたいなことを想像していくと、これ噂は噂としても、何かはあるぞ、となってくる。

サブチャンネル『ゾゾゾの裏面』で公開された『捨てられた心霊写真』そして『信州観光ホテルの真相』の二本は、ある種その方向性の集大成のような傑作で、怪異と場所の掘り下げによって、「ひょっとしたら世の中には本当にそういうものがあるのかも」と思わせるだけの怖さがある。

ちなみに、僕の部屋では、『信州観光ホテルの真相』の回と、映画『残穢』をNetflixで見直した2回だけ、GoogleNestが誤作動を起こし、「すみません、よく聞こえませんでした」と何も言ってないのに突然喋りだしたことがある。閑話休題。

・・・

前回の「②」で「考察系怪談」について書いたけれど、いわば「考察系肝試し」というのが主流ともいえるんじゃないだろうか。

以前、北海道のとあるスキー場のある山に、真夏のシーズンオフ中に友人とともに行ってみたことがある。
そこで、スキー場の麓には、冬の間(スキー場のオープン中)は、「なんだか建物があるな」くらいに思っていた建築物があった。

ふと思い出して、その建物に近づいてみると、それは宿泊施設の廃墟であることがわかった。
かなり田舎の方ということもあってか、特に施錠もされておらず、別に心霊スポットというわけでもなかったので、落書きがされていたり中が荒らされていたりといったこともほとんどない、いわば「穴場」だった。

3階建てで結構大きなその廃墟をしばらく探索すると、廊下に出されている作業台みたいなものがあって、その引き出しに、カセットテープが入っているのが見つかった。

持って帰ろうかとも思ったのだけど、なんとなく躊躇して、その場では元あった場所に戻すことにして、さらっと30分くらい見て回って、帰ることになった。

一ヶ月後、僕は地元の心霊スポット好きな友達を連れて、あらためてその廃墟に行くことにした。今度は夜に、それもほとんど丸々一晩そこで過ごすくらいの覚悟で。

しっかり一部屋一部屋回ってみてわかったのだけど、新聞や布団など残留物がかなりたくさんある。

たとえば、ある部屋の新聞は「1998年6月」とかだったりする。
あぁ、そのくらいの時期にこの施設は閉業したのか。10年くらい前に潰れたんだな、というようなことを考える。

次の部屋では、「1998年10月」の新聞紙があったりする。
4ヶ月もタイムラグがあったりするものなんだろうか?とちょっと不思議に思う。
まぁ別にありえないことは全然ないだろうけれど......。

3階建てだと思っていた廃墟は、思った以上に大きいことがわかり、はしご階段をつかって入る、屋根裏部屋のようなスペースがあるのも見つけた。

中に入ると、大量の、昭和ぐらいの時期の「週刊少年ジャンプ」がおかれているのが見えた。当時は平成20年前後で、閉館当時ですら平成10年なのに、いくらなんでも古すぎる。

さらに、屋根裏部屋の奥には、卒業アルバムが残されていた。
これもかなり立派な作りで、白黒写真であることから、だいぶ古いものだろうことがわかる。(記憶がおぼろげだけど昭和40年ごろのものだった気がする)

別にあっておかしいものがあるわけじゃない。
でも、それにしたっていつ潰れてどのような経緯でこの状態で残されているのか、不思議なのは確かだった。

明け方になって、改めて部屋の中を巡っていて、カレンダーが壁に飾られているのと見つけた。そのカレンダーの日付は「2000年4月」になっていた。

新聞は1998年、カレンダーは2000年。
タイムラグがありすぎてよくわからない。
卒業アルバムや週刊少年ジャンプがそのまま残ってたのはなんなんだろう。

それから、前に来たときに見つけていたカセットテープの入った引き出しをあらためた。

カセットテープはなくなっていた。

先述の通り、その廃墟はわざわざ肝試しに人が来るような感じの場所でもなく、ネットでも一切情報が出てこない場所だった。
そんな場所にたかだか1ヶ月以内に人が訪れて、カセットテープをわざわざ回収したというのだろうか?

これら一つ一つの情報は、別にいくらでも合理的な説明のつく、「怪談」と呼ぶのは憚れる程度の話である。

ただ、実際にその場にいた僕たちとしては、一つ一つの情報に認知が歪む感じというか、残された痕跡から過去を辿っていこうとする中で感じる恐怖感みたいなものが確かにあった。

廃墟を歩いている間、ビデオカメラでかなりの長時間録画していた。
その映像には「ふぅん」とも「きぃん」ともつかない甲高い音が一部入っていた。

その音は教室で椅子を引いたときのような音にも聞こえ、そうでないなら、女性の相槌のようにも聞こえる音だった。

その場にいたのは男3人で、廃墟の床はカーペット敷きである。

・・・

僕はこれらの廃墟を巡った自分自身の経験を後から振り返って、「新耳袋 第四夜」の「山の牧場」を思い出していた。

「山の牧場」はまさにそういった怪談で、個別に見ると説明をつけられないこともない、でも文脈が絶妙に欠如した個別の痕跡に恐怖する話である。

ここにあるのは、「情報の欠如」である。
補足される情報が出てくれば出てくるほど怖くなくなるだろう。
その情報が想像で補える範疇であれば「まぁ別に不思議でもなんでもないんじゃない」となる。

あらゆるものごとには「文脈」というものがあって、その「文脈」が欠けているとき、具体的にしろ、漠然としたものにしろ、想像が働く。

そこに怖さの本質みたいなものがある気がしている。

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