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教え過ぎない大切さ。

塾講師アルバイトでは気がつかなかったが、研究室での生活で本当の意味での教育について自分なりの発見があった。今日はそんな話。

塾講師のアルバイトは大学1〜2年生の時にブラックバイトとは理解しながらも『ブラックも磨けば黒光りする』をモットーに楽しんで毎日バイトをしていた。※また別日にこのnoteを書こうと思う。

塾では、優しい先生、カッコいい先生、可愛い先生などなど他種多様で講師がいるのが良いと思っていた。
また、勉強の教え方も細かく丁寧に教える講師、楽しそうに教える先生、など教え方にも多様性があり、当時はどのやり方も生徒にとって良いのであれば良いと思っていた。

一方、僕の研究室では先生が週1回会えればラッキーなほど話す機会が無く、他の連絡はSlackで連絡をする程度でしっかりと教えてもらえない。
(例)
・質問に対して○と×のスタンプで教えてくれる。
・面白そうな論文のURLが貼られる。

研究室に入りたての時に塾講師の経験からはこの放置するやり方はどうなんだろうと思っていたが、これがものすごく勉強を教える上で重要なことだと教育される側になってようやく気がついた。

塾講師の時は「とにかく出来る限りわかりやすく丁寧に誰にでもわかるように。」の考えで僕は工夫をして授業をしていたが、

僕の研究室では「この論文や実験結果は面白そうだね。この先が気になるなら自分で解釈して周りと議論をしながら手を動かしてごらん。」のスタンスで動いている。

塾講師をしていた時の僕は、生徒に対して能動的に考えるせっかくのチャンスを奪っていたような気がした。
一方、研究室のスタンスでは自ら考えないとさっき話題にあがった面白そうなことを知れないからやってみようという気持ちになる。

昔だれかから聞いたことある名言でこんなものがあった。
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「コロンブスが幸福だったのは、彼がアメリカを発見した時ではなくそれを発見しつつあった時である。幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない」[ロシアの作家のドストエフスキー]
※しっかりとこの作家の文章は読んだことがないので名言だけ知っている程度の知識ですみません。
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あ、まずい。。
僕が生徒に丁寧に教えすぎていたいたことはもしかしたら"幸福"を奪っていたのかもしれない。

いままで思っていた
「勉強を教えるのがうまい」=「教えるのが上手い」
とは言い切れないと思った。

今の僕は、勉強を教えるにあたって重要なのは
「新しいことを自分の力で知れる感動・楽しさを教えるのが大切」だと思う。
※もちろん、挫折しない程度にわかりやすく説明することも重要だけどね。

先日、研究室の引き継ぎがあった。
元々はスライド60枚くらいで90分無いと細かくまでわからない研究内容を丁寧に教えるつもりだったが、
この事を思い返して、スライド1枚で10分で終わる程度の楽しさが伝わる程度のかなり軽いものに変更した。

ここまで読んでくれてありがとうございます。
いいね・コメントなどあればぜひお願い致します。
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[おまけ]
今日の写真は僕の家の愛犬です。
夕食の支度でこぼした料理を狙っています。


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