すずきりょうた

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マガジン

  • 燈「吉田多喜雄探し」

    • 20本

    高祖父吉田多喜雄を探せ。 明治11年鹿児島生まれの高祖父「吉田多喜雄」に関しての記事。

  • 燈「先祖巡礼」

    • 63本

    吉田家の鈴木良太と安藤家の藤小雪庵が現代に「燈(あかり)」を灯す、子孫たちによる先祖を巡る日記。

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最近の記事

埼玉の加須とうどん - 巡巡 #018

先日スーパーでふと目についた「加須うどん」という商品。加須は埼玉にある地名で高祖父多喜雄の最後の住所で、戸籍謄本を取りに一度だけ行ったことがあった。朝だったのでわからなかったが、どうやら加須周辺にはうどん屋がいくつもあったらしい。加須うどん会なるものもあったサイトによると「江戸時代の始め、川の氾濫によって肥沃な土が運ばれ、小麦の栽培に適した地だったとされており、米より小麦の栽培が盛んだった」当時は中山道と日光街道を結ぶ宿場町で、関東三大不動尊の一つ「不動ヶ岡不動尊 総願寺」の

    • 択捉島(北方領土)にある戸籍の取得方法

      現在、北方領土で保管されていた戸籍の管轄は釧路地方法務局で、そちらに必要書類を申請して郵送で取得します。(歯舞群島は根室市が保管)ほかの戸籍の取得方法と変わらず、直系であれば証明できる戸籍謄本と身分証明書とPDFの申請書を同封。代理人であれば委任状が必要です。 以前書いた以下記事で自分の高祖父の明治の本籍が「択捉島沙那郡留別村」だったため、除籍謄本を申請したのだが自分の場合はもうなかった。理由は一部しかないため、その一部に高祖父の謄本がなかった。明治の戸籍なのでなくても仕方

      • 明治生まれのひいおじいさんが映っているビデオを見つけた

        明治生まれの人は日本にはほとんどいないんじゃないかと言われている2023年、もし明治44年生まれの人でも111歳。 うちのひいおじいちゃん吉田清夫が明治39年に生まれ平成8年(1996年)に90歳で亡くなった。僕がちょうど高校に入学した頃だったと思う。生きてたら117歳。最後まで色々と周囲を困らせることもあったらしいが、ちゃんと話を聞いておきたかったなと思う今日この頃…。なんと最近になってその清夫が映っているビデオを見つけた。 吉田清夫は先祖巡礼(ポッドキャスト)や以下の

        • 明治40年小坂鉱山の災害事故のことなど - 巡巡 #017

          多喜雄の妻、僕のひいひいお祖母さんだが、この方は若くして亡くなっていた。戸籍ではなぜ亡くなったかはわからなかったのだが、除籍謄本にその場所が記載されていた。それが「小坂鉱山」であった。 明治40年頃、多喜雄は東京から秋田にいた。僕のひいお祖父さんの吉田清夫を四谷で産んだ翌年のことだ。 上の写真は多喜雄と結婚した明治37年頃だろうか。 結婚してわずか3年、27歳でこの世を去ってしまったはつさん。絶望的ともいえる環境で残された多喜雄と小さい清夫はその後どんな人生をおくったのだ

        埼玉の加須とうどん - 巡巡 #018

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          明治時代の択捉島に何があったのか - 巡巡 #016

          多喜雄に関して、うちの家族に聞いても特に情報は得られなかったので、自分で調べることにした。2014年に亡くなった祖父に聞けたらなと悔やむ。そもそも祖父は多喜雄と接点があったのだろうか?多喜雄は昭和18年に65歳で亡くなっていて、祖父は昭和9年に生まれている。会っていたとしても小さいからあまり記憶になかったか、僕は聞いたことはない。自分のじいちゃんのおじいさんの話を聞くことは少ないかもしれない。 まず僕が調べたのは現在の択捉島に本籍があったことだ。明治20年代の中頃から後半に

          明治時代の択捉島に何があったのか - 巡巡 #016

          吉田多喜雄の出会い - 巡巡 #015

          ひいひいお祖父さん、吉田多喜雄。明治のはじめの人なので出会いと言ったものの、もちろん会ったことはありません。最初に知ったのは2015年くらい、ふと思い立って始めた先祖探しの第一歩、戸籍収集の時だった。筆頭者の本籍を辿って、時代が繋がっていく感覚が楽しかった。残っていれば150年から200年くらいは遡れるので、江戸時代の5代6代前の先祖を知ることができる。 知ったところで…とハッと冷めてしまうことも無きにしも非ず。しかし先祖を知ることで場所や出来事、ふとした小さなことでも深み

          吉田多喜雄の出会い - 巡巡 #015

          吉田多喜雄の痕跡探し- 巡巡 #014

          少し時間がかかるかもしれませんが、新たにマガジンを作りました。 このマガジンは高祖父「吉田多喜雄」(ひいひいおじいさん)に焦点を絞った記事を残したいと思います。 吉田多喜雄は明治11年5月20日に士族吉田清廉の長男として鹿児島県鹿児島市荒田町で生まれました。10代後半までに上京をし、国の勤め人だったとされています。 なぜ多喜雄なのかと言うと、自分がやっているポッドキャスト「先祖巡礼」で遡れる最後の戸籍謄本が彼であり、彼をきっかけにさらに吉田家を知ることが出来そうな点。その

          吉田多喜雄の痕跡探し- 巡巡 #014

          一般用米穀類購入通帳を発見 - 巡巡 #013

          一般用米穀類購入通帳(以下・米穀通帳)が祖父母の家から出てきた。昭和35年から36年の一年間使用していた米穀通帳だ。戦前から戦後にかけて食糧難に際し行われた、食糧統制というもので、この通帳がないと国から配給される米が買えなかった。始まったのは昭和17年の「食糧管理法」の制定あたりからだろうか。完全に制度がなくなったのは昭和57年とのことで、僕は2歳の時で、母はこの制度を使った事ないらしい。なのでこの36年頃から曖昧に終わっていったのかなと思う。当時は身分証明書にもなったらしい

          一般用米穀類購入通帳を発見 - 巡巡 #013

          吉田清成と鎌倉|海浜院や別荘 先祖の足跡を探して - 巡巡 #012

          吉田清成は白金志田町の屋敷の他に鎌倉に別荘があった。明治20年ごろ清成が元老院議官・柩密顧問官時代に華族に命ぜられる。その流れでこの別荘を持つことになったのだと推測される。しかし清成は以前から肺を患っており明治24年8月3日に亡くなってしまう。当時の鎌倉滞在記録には晩年の清成と家族の生活が描かれている。以下明治29年の相模国鎌倉名所及江之嶋全図より。 吉田清成関係文書7によると鎌倉郡乱橋材木座村字大門の番地の中の官林の土地を道路建設の為に明治20年12月に返地している。官林

          吉田清成と鎌倉|海浜院や別荘 先祖の足跡を探して - 巡巡 #012

          軍用犬研究と警察犬の始まり 陸軍大尉吉田彦治という人物について- 巡巡 #011

          先日先祖巡礼のポッドキャストにてうちの家系の戸籍に載っていた、明治の叔父さんが日本の軍犬・警察犬に至る研究の第一人者「陸軍大尉・吉田彦治」であったという話をしました。 明治37年に陸軍士官学校を卒業後、明治40年に陸軍大学校を出ています。将校を目指したり、出世コースを進んだエリート軍人だったのかなと思います。(国立公文書館アジア歴史資料センターより)その後、千葉の陸軍歩兵学校の歩兵学校教導隊所属します、大正元年のことで大正3年「軍犬ノ養成並使用法ノ研究」という資料を発表して

          軍用犬研究と警察犬の始まり 陸軍大尉吉田彦治という人物について- 巡巡 #011

          谷中霊園の白と黒の2匹の猫など - すず記

          ちょっと前に徳川慶喜の墓を見に行こうと谷中霊園の中を迷っていたところ珍しい光景に出会う。白と黒の猫だ。この組み合わせとシチュエーション、このお墓の方は猫と何かしら縁があったのだろうかと思わずにはいられない光景。近寄っても逃げなかったので、1枚写真を撮らせて頂いた。もし飼い猫なら名前はシロとクロじゃないだろうか。目を閉じ微動だにせず、この子たちはどこから来てどこへ帰るのか…。この谷中周辺は猫が多いと言われているけど、ほとんど見ない。お墓は静かで段も多く猫には過ごしやすい場所なの

          谷中霊園の白と黒の2匹の猫など - すず記

          ちょっと遠い父の墓(※22.08.12写真追加) - 巡巡 #010

          2020年に亡くなった父の墓が神奈川県三浦市にある。京浜急行線の終点の三崎口というところだ。 僕は知らなかったが父と母は、この三浦市周辺が好きでよく出掛けていたらしい。父は僕が子供の頃から、自分が死んだら「葬式もやらない」「墓も作らない」宣言をしていて、骨も散骨にしたいと、あの頃は冗談なのかもしれないが、実際こういう風になってしまうと、どこにも何もなくなってしまうのはツラいと言う母の想いから樹木葬だけど墓を探した。 近い方が何かと便利かと思い都心で探したが、母の想いが強く

          ちょっと遠い父の墓(※22.08.12写真追加) - 巡巡 #010

          何度目かの蜂窩織炎でダウン - すず記

          先日体調を崩し40度まで熱が出た。耳たぶ付近の腫れと、悪寒で凍えているのに熱があるってめちゃくちゃ怖い。どこまで熱が上がるのか分からず、怖くなって救急外来に電話をする。いくつか電話をするものの「朝まで頑張れ」とのことで全て断られてしまった。確かに熱くらいとは思うが…。コロナの影響で発熱は厳しいか。 実はこの患部の腫れと発熱の症状、今までに何度かやってしまっている。「蜂窩織炎」だ。菌が入り赤い腫れが広がっていく、それから熱が出る。7年ほど前に罹った時は同じくこの季節に足に出た

          何度目かの蜂窩織炎でダウン - すず記

          曽祖父が残した謎の写真 - 巡巡 #009

          以前記事にした(東京市四谷区仲町壱番地を見つけたい - 巡巡 #006)四谷区仲町生まれの曽祖父吉田清夫は平成8年に90歳で亡くなりましたが、写真が好きだったようで大量の写真が遺品として遺してくれました。その写真は旅行や日常風景、家族との写真など約200枚ほど。現代で言うスマホで撮るかのようにフィルムを消費したことでしょう。 先頃祖母からその写真が僕の手元にやってきて、全てスキャンをしました。家族以外の人が誰なのかよくわからない写真ばかりだったのですがいくつかの写真の裏に「

          曽祖父が残した謎の写真 - 巡巡 #009

          逓信官吏練習所跡地を見つけた - 巡巡 #008

          逓信省の勤人の養成学校の東京郵便電信学校(東京電信学校)の跡地を見つけた。明治42年から昭和24年まで存在した、後の逓信官吏練習所の跡地だ。明治4年に修技学校、明治19年に電信修技学校、明治23年に東京郵便電信学校となった。電信学校は所謂モールスの技術者を養成する機関だ。 その学校が現在の芝公園のメルパルクホールがある辺りにあったようだ。言い伝えによると電気技術者だった高祖父はここの出身らしいのだが、卒業名簿に名前がないのでもしかしたら他の電気・通信系の学校だったのかもしれ

          逓信官吏練習所跡地を見つけた - 巡巡 #008

          半年ぶりにT3が帰ってきた - すず記

          長野の「スペアサービス諏訪」に去年の12月に修理を出したCONTAX T3が半年ぶりに帰ってきた。割と状態の良い個体を買ったばかりだったのでこんな早く壊れるのは悲しい。 前回、同センターに修理に出して戻ってきたCONTAX T2は見違えるほどオートフォーカスが向上したので、T3も生まれ変わっていてくれていることに期待。肝心の修理した箇所はフィルムを巻き取るスプール部分の交換とレンズ機構部品の交換。AE、AFの諸々の点検で28,600円也。レンズ内のゴミは取れず。 ここ数年

          半年ぶりにT3が帰ってきた - すず記