「働く」の時間論⑥ 誰のために働くのか
大学時代、周りが就職活動をしている時期に「なんのために働くのだろう」と疑問に思っていた。今思えば、自分が就職活動をしないことへの言い訳のために考えていたのだろう。何人かの友達に「なんのために働くのか」と聞いた。そのうちの一人が「食べるためだよ」と言ったことを覚えている。
当時は「食べるために働くなんてよく言うなあ」と思っていた。新卒採用の就職活動では志望動機を書かなければならない。皆、それらしいことをひねり出して書いていた。どんな仕事が自分に向いているのか、自己分析も当たり前だった。そんな中で「食べるため」と言い切るのは、正直なんて浅はかなんだと思った。
しかし「食べるために働く」ということが間違っていなかったことを『レヴィナス 何のために生きるのか』という本を読んで理解した。この本はレヴィナスというホロコーストを生き抜いたユダヤ人の哲学者の考えをコンパクトにまとめたものである。本には「何のために生きるのか」という問いに対して、まず「自分のために生きる」ことが前提としてあると書いてあった。
自分のために生きる。そのために、自分のために働く。目の前にいる人を喜ばせるため、より良い社会にするため。人はいつでも誰かのために働くものかと思っていた。しかし誰かのために働くためにはまず自分の肉体を維持していかなくてはならない。そもそも自分自身が食べていくために働かなくてはならない。
自分のために働く。実は現代であまり言われていないことではないだろうか。「〜のために」という自分以外のものに対しての目的が前提の社会の中で、禁句になっていないだろうか。
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